この世で正しい宗教は日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)ひとつだけ。創価学会や顕正会ではありません。



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[4] 日蓮正宗総本山富士大石寺

投稿者: 管理人 投稿日:2017年 4月21日(金)06時20分24秒   通報    編集済

750年の歴史ある日本で一番広い敷地を誇り、富士山が眼前に迫る景観は圧巻です。ここに全民衆を

救済して下さる本門戒壇の大御本尊様がまします。




[2] 正しい宗教のすすめ。この世で正しい宗教は日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)ひとつだけ。創価学会や顕正会ではありません。

投稿者: 管理人 投稿日:2017年 4月20日(木)15時14分17秒   通報

、信仰とは何か
先ず、信仰とはどのようなことをいうのか、という点から述べてまいりましょう。

信仰によって生ずる影響

世の中には、たくさんの宗教がありますが、その各宗教には、そろぞれの教えや指針などを具体的な形に表した 「本尊」というものがあります。

本尊というのは、根本として尊敬すべきもの、という意味で、人生の根本として信仰・礼拝する対象のことを いいます。

各宗教では、それぞれ立てている本尊が異なっておりまして、たとえば、浄土宗では阿弥陀如来(あみだにょらい) を本尊とし、真言宗では大日如来を(だいにちにょらい)本尊とし、また、稲荷(いなり)信仰では狐(きつね)を 本尊とし、キリスト教の多くは十字架にかけられたキリストを本尊としている。という具合です。

さて、この、本尊を信仰するということについて、わかりやすく説明をしてみます。

俗に「朱に交われば赤くなる」といわれますように、私たちが友人をもって、親しく付き合っていく場合、その友人の 口癖(くちぐせ)がうつったり、人生観や考え方が似て来たり・・・・、知らず知らずのうちに、その友人からいろい ろな影響を受けるものです。

この場合、ただ、つき合っている、というだけでも相手の影響を受けますが、さらに、相手に対し信頼・尊敬の念を強 く持って、つき合っていったら、どうなるでしょうか。

相手を、強く信頼し尊敬すれば、するほど、相手から受ける影響も、強く、大きくなっていく、というのが実際であります。

このことからわかるのは、私たちの生命には、本来、外界の事柄を自分の中に受け入れ、染め込んでいく働きが具(そな) わっており、その働きは、相手を信頼し尊敬することによって強く働く、ということです。その証拠に、心から嫌い賎しん でいる相手の影響は、ほとんど受けません。

さて、信仰というのも、これとほぼ同様のことです。つまり信仰とは、読んで字の如く、信じて仰ぐ・・・、すなわち、 信仰する対象である本尊を、人生の根本として信じきり、手を合わせて拝むまでに尊敬しきるという、いわば信頼・尊敬の 極まった姿が信仰であります。

そして、これにより、その信仰の対象である本尊の影響を自分の中へストレートに受ける・・・。それも、友人を信頼し 尊敬して影響を受ける、といった程度ではなく、その本尊を、自分の人生の根本として信じきり、手を合わせて拝む程に 尊敬しきるわけですから、それによって、その本尊と自分の生命が一体化してしまうまでの強烈な影響を受けるのであります。 この、本尊と自分自身とを一体化させる働きをもたらすのが、信仰という行為であります。お分かりいただけたでしょうか。

何を信仰してもよい、というわけにはいかない
さて、ここで大切なことは、どのような本尊を対象として信仰するか、ということです。先ほどの例で言うならば、友人を持つ ことは良いことであり、必要なことですが、それよりももっと大切なのは、どのような友人をもつか、ということでありまして、 もし、悪人を友人としたならば、その影響を少なからず受けてしまいます。

それと同じように、信仰においても、信ずる対象は何でもよい、というわけにはまいりません。もし、信仰の対象とした本尊が、 低級・邪悪なものだったならば、それを信仰する人の人格、人生も、おのずと低級な、苦しみや行き詰まりに満ちた不幸なものと なってしまうからです。

よく、世の中には、「イワシの頭も信心から」などといって、信仰は何でもよいと思っている人が多いようですが、そもそも、 イワシの頭を人生の根本にするのと、世界的な哲学者の教えを人生の根本にするのとでは、その人生に天地雲泥の差が出るのは 当然のことではありませんか。

ましてや、本尊を立てて信仰していく場合には、本尊と自分とが一体化する程の強い影響が生じますから、もし、信仰する本尊 の選び方を間違えたならば、自分の人生を破滅に導くほどの結果になるのであります。

信仰の対象を誤ると、何が起こるか
一番分かりやすい例として、狐(きつね)や蛇(へび)などの、いわゆる畜生を本尊として信仰する場合について考えてみてくだ さい。まず、狐や蛇を信仰するということは、狐や蛇を自分の人生の根本として尊(たっと)ぶ、自分の中に受け入れる、という ことですから、最終的には、自分自身が畜生と同様の状態になっていくことを意味します。

そのさい、畜生の持つ特殊な力、例えば、沈む船から予(あらかじ)めネズミが一匹もいなくなるとか、大地震の来る半日くらい 前から動物が騒ぎ始める、などといった、危険を予知する動物的な第六感などが、自分の生命にも具(そな)わってくるため、奇 跡的に捜し物が見つかったとか、商談がうまくいったなどの、いわゆるご利益らしき現象が現れてくる場合があります。

しかし、良さそうに見えるのは最初の一時(いっとき)だけでありまして、畜生を熱心に信仰すればするほど、畜生と自分自身 とが一体化していきますから、やがては、人間としての正常な知恵や判断力、人格などが、まったく失われてしまうわけです。 それでは、仕事や家庭生活、対人関係などが、うまくいくはずがありません。

それにも気付かずに、もっと熱心に信仰していけば、畜生と自分自身が完全に一体化し、さらに恐ろしいことが起こります。それは どんなことかといいますと、昔から世界各地に”狐憑き”とか、”神懸かり”とか呼ばれている奇怪な現象があります。それは、人間 が狐のようにピョンピョンはねたり、蛇の様にうねったり、得体のしれないものが見えたりする現象です。

この現象は、まさしく、こうした狐や蛇などの畜生を信仰し、畜生と一体化したために生じたものなのです。信仰ということに無知な 人は、こうした不可思議な現象を見て、「霊が憑いた」だの「神懸かりになったのだ」と言って、何か、ものすごいことであるかのよ うに感動するようですが、人間がその様な姿になってしまったのでは、真に幸福な人生を営むなど到底できません。

このように、本尊が高いか低いか、正しいか間違っているか、という違いは、それを、信ずる人の人格・人生を決定的に左右する程の 影響をもたらしますから、まず、何よりも、最高で最も勝れた正しい本尊を選ぶことが肝心なのであります。

信仰の対象に迷う諸宗教の姿
ところが、こうした、信仰ということの本当の意味を知らない人々は、人間より劣る畜生を拝んだり、十字架にかけられて惨死した キリストの象を拝んだり、あるいは極楽浄土などという架空の世界に住むといわれる、我々には縁もゆかりもない阿弥陀仏などを拝んだり しています。ひどいところでは、何を本尊にしていいかわからず、何回も本尊をクルクルと変えている、呆れた宗教もあります。

そもそも、我々人間が、畜生を自分の人生の根本として信仰し、幸せになれるはずがありませんし、十字架に張りつけにされた、「神よ 我を見捨てたもうか」と嘆きながら殺されたキリストの像や、そのキリストを処刑した道具ともいうべき十字架を、自分の人生の根本と して信仰し、幸せになれる道理がありません。

また、かのオウム真理教の施設の中では、一切を破壊するといわれるシヴァ神の像を祀って、信仰していました。そのオウム真理教が、 この世を破壊するハルマゲドン(最終戦争)を起こそうとして、あのような凶悪犯罪に走ったことは、皆さん、記憶に新しいことと 思います。

若くして学問も出来、医者や科学者であった理知的な人までが、なぜ、あのような醜悪な教祖にたぼらかされて、恐ろしい犯罪を犯して しまったのか、それは、破壊の神を本尊として信仰し、一体化したための、当然の結果だった、という事であります。

このように、何を本尊にするかを誤り、低級・邪悪な本尊を信仰していけば、自分の人生を滅ぼす結果となるわけですから、まことに 愚かで、恐ろしいことといわねばなりません。

700年前、この日本の国にお生まれになった、日蓮大聖人は、このような宗教界の本尊の乱れに対して、「世の中の宗教は本尊に迷っ ているが、本尊とは最も勝れたものを立てなければいけないと叫ばれました」。そして、厳密かつ公正な宗教批判の基準をもって、最高 真実の判定をされたのです。

最も勝れた正しい本尊とは
このことは、とうてい短い紙面で述べることはできませんが、その概ねを少しだけ述べてみましょう。まず、世の中にあるすべての宗教を 仏教と仏教以外の宗教とに分けて比較相対し、仏教の方が勝れる、ということを明らかにします。

次に、仏教の中にもいろいろ教えがあるけれども、その中でも、最後に説かれた”法華経”という教えにのみ、真理の全体観が明かされている、したがって、仏教の中では法華経が最も勝れる、ということを明らかにします。

そして最後に、その法華経の文の底に、いまだ説かれた事のない真実最高の大真理 ”南無妙法蓮華経”が秘められている、ということを明 らかにします。

しかして日蓮大聖人は、この南無妙法蓮華経という大真理を、一体の御本尊として顕されたのでありまして、これこそが、 あらゆる教えを比較相対して最後に選び出された、最高真実の本尊であります。

では、日蓮大聖人の顕された御本尊とは、いったい、どのような本尊なのか、と申しますと、それは、一言でいえば ”仏の生命の当体” であります。

普通 ”仏”というと、死んだ人や、金ピカの仏像のことだと考えられがちですが、本来、仏法で言う仏とは、私たちの生命の 奥深くに眠っている最高の生命のことであり、日蓮大聖人はこの仏の生命の実体を、御本尊として顕されたのです。

私たちが、この御本尊を信仰するならば、御本尊と私たちの生命が一体化し、私たちの生命の中に、偉大な仏の生命力が現れてきます。

そして、この仏の大生命力を原動力にして現実世界を生きるとき、人生のあらゆる悩み苦しみを解決して、物心両面にわたる真の幸福を獲得していくことができるのであります。今日、この日蓮大聖人の顕された最高真実の御本尊は、”日蓮正宗・富士大石寺”にのみ正しく伝えら れています。

2、恐るべき邪宗教の害毒、最高真実の教えは1つしかない
さて、話は変わりますが、世の中には、実に多くの宗教が存在しています。そして、どの宗教においても、「我が宗教こそ最高の教えである」と主張し宣伝しています。しかしながら、道理として考えてみると、最高がいくつも存在するはずはありません。

この点について、インドの 釈尊(お釈迦様)も、「この世の中に、真理を説き示した法は一つだけであり、二つも三つもないのである」といわれていますが、最高真実 の宗教というものは、ただ一つしかないのであります。

そして、それはすでに簡単に説明いたしましたとおり、さまざまな宗教の中では仏教、仏教の中では法華経、法華経といっても文底に秘めら れた最高真実の南無妙法蓮華経こそが、唯一、最高真実の正しい宗教であります。

このことが明らかになることによって、同時に、他の一切 の宗教は、それ以下の低級な教えと本尊を立てることが判明いたします。

この低級な宗教は、最高真実の宗教の存在をまぎらわせ、また、すでに述べた本尊と自分との一体化の作用により、信仰する人々を悉く不幸 な境涯へと導くのでありますから、まさに、”邪宗教”とよぶべきものであります。

邪宗教とは、どのようなものか
世間の人達は、この、”邪宗教”という呼び方を聞きますと、たいがい拒否反応を示しますが、純粋に求める人々を騙し、かえって不幸のど ん底へと突き落すような宗教は、邪宗教と呼ぶ以外にありません。では、そんな悪いものを信じ、ついていく人達がいるのはどうしてでしょ うか。

それは、邪宗教の教祖や祈祷師が、迷っている人々の悩みを一つ二つ言い当てたり、あるいは、狐憑きのような不可思議な現象が起こったり 信ずる者の二、三の病気が治る、といった、いわゆる ”奇跡”と呼ばれるご利益めいたことがあるからです。

これらを目の当たりにしますと、たいていの人は、それまでは自分の常識では理解できないことであるため、いとも簡単に「これはすごい、神 仏の力以外考えられない」などといって、信じ込んでしまうのであります。

しかし、そうした奇跡なるものは、すでに述べた如く、低級な本尊と自分自身との一体化によって現れた、低い宗教なりの小さな利益でありま す。

一時的に良くなったように見え、不思議なご利益を受けたように見えましても、低級な宗教には人生を正しくリードする力もなくまた、最 高真実の宗教にも背くことになりますから、後々まで見ていきますと、例外なく大きな不幸を招き、身を亡ぼす結果となってしまうのです。

現に、よくよく周囲を見渡してみてください、神札を家中に貼り、邪宗教の檀家総代などを代々熱心に続けてきた家ほど、不慮の災難、病気、 自殺、家庭不和、身体障害等々の、深刻な苦悩にあえいでいることがわかります。これこそ、邪宗教のもたらした、恐るべき害毒なのであり ます。

全ての人が邪宗の影響を受けている
以上、簡単に邪宗教の害毒について述べてみましたが、皆さん方の中には、「自分は無宗教であるから、自分には関係のない話だ」という 人があるかも知れません。

しかし、よく考えてみてください。先ず、私たちの身体は何処から生じたか、といいますと、やはり、両親の 身体を分けて生まれてきたのであります。

医学的に見ましても、私たちの身体は親とは全く別々のものではなく、遺伝によって、両親をはじめ先祖の、体の諸々の特徴・体質等を 引き継いでいます。ですから、親と子は、顔が似ている、性格・気性が似ている、血液型がつながっている、といった類似点が多いわけで す。

以上は、主に肉体面から見た場合ですが、精神面から見た場合でも、人間は0~3歳くらいの時期に、親の人格に触れ、それを、ほぼ、その まま吸収することによって、人格の基盤が形成される、といわれています。

したがって、肉体面では、遺伝という形で、精神面では幼少期の 教育という形で、両親ひいては先祖代々のもつすべてのものを引き継ぐことになります。

まさに、私たちの生命は先祖とつながっている、といえましょう。そして、もし、自分の先祖なり両親なりが邪宗教の信仰をしていた場合に は、その生命に深く刻みつけられた害毒は、けっして、その一代かぎりで消滅することはなく、今日の私たちの生命の中にまで受け継がれ 流れ込んできているのであります。

したがいまして、今日、いかに「自分は無宗教だ」という人であっても、その先祖に遡れば、必ず菩提寺があり、邪宗信仰があるのですから 、知ると知らずとに関わりなく、その邪宗教の害毒を自分自身も深く受け継いできてしまっている、と知らなくてはなりません。

こうして 考えてみますと、いかに宗教と無関係のつもりの人であっても、じつは、一人残らず、邪宗教の害毒に人生を蝕まれ、生きていることが明ら かになります。

ましてや、自から熱心に邪宗教を信仰している場合には、なおさら義毒に汚染され、不幸の原因を刻んでいることは申すに及びません。まさに 恐るべきは邪宗、憎むべきは邪宗でありまして、これを捨てて害毒の根を絶たなくては、個人の幸福も、真の平和も、絶対に実現できないので あります。

3、不幸の寄ってくる原因 人生の幸不幸は何から起こっているか
次に、、正しい宗教と、人生の幸・不幸の関係について述べてみましょう。前にも述べましたように、日蓮大聖人の仏法は、私達の生命の奥深く内在する仏の生命力(これを「仏界」ともいいます。)を開発し、真の幸福を獲得していく、唯一最高の仏法です。では、もし、この仏法に従わず、背いていった場合には、いったい、どうなるのでしょうか。

この仏法に従わず、背くということは、自分の生命の中に仏界という最高の生命力を引き出すための法に背く、ということですから、それは、 逆に自分の中の仏界を、覆い隠し、破壊することになってしまいます。

そのために、生命力はしぼみ、その、しぼんだ生命力で人生を生きていく結果、仕事上、健康上、精神上と、あらゆる面にわたって諸々の生き 詰まりが生じ、次第に、悩み苦しみに煩悶する人生に陥っていくことになるのです。

まさに、人生のあらゆる不幸の起こってくる根本原因が、ここにあるのでありまして、これを通常、仏法では”罰”と呼んでおります。

この ”罰”ということについて、さらに、わかりやすく説明いたしますと、私達の身近な例として、交通法規というのがあります。これは、私達が 社会に生活していく上での、一つの法(ルール)です。

この交通法規が存在しているいるにも拘わらず、もし、これに従わず、信号・標識・規則等を無視して通行したならば、必ず、事故を起こすな どのマイナスな結果が生じてきます。

しかも、その場合に、たとえ「自分は山奥から出てきてルールを知らなかった」とか「そのようなルール を学んだことがなかった」といっても、知ると知らずとに関わりなく、ルールに従わないこと自体が事故を招く原因となるのです。

また、もちろん、交通法規を知っているものが、あえてそれに逆らい、右折禁止を右折し、一方通行を逆に進み、赤信号で前進する、といった 具合に、わざわざ逆に行動したならば、知らずにルールに従わなかった人よりも、さらに事故にあう頻度は高くなり、より激烈な大事故を引き 起こすことは、申すまでもありません。

以上は交通法規の例ですが、この他にも、私達の生活上にはさまざまな法(例えば国の法律、世間の常識など)があって、それらのルールに従 わず、背いたときには、やはり、それ相応の不都合やマイナスな結果が生じてきます。

このことは要するに、ひとつの法、(ルール)が存在す るにも拘らず、自分がそれに従わなかったならば、、結果としてマイナスな現象を招く、という道理でありまして、仏法でいう所の罰というの も、基本的にはこれと同じ考え方である、といえましょう。

つまり、仏法とは、自分の生命に内在する仏界を開発し、真の幸福生活を築いていくための、いわば人生の根本法です。この根本法にに従わな いから、生命力がしぼんで、さまざまな不幸が生じてくるのであり、これこそ、人生の、もっとも根源の不幸の原因となるのです。

それも、先 程の例でいえば、「自分は交通法規を知らなかった」と言っても交通事故から逃れられないのと同じように、仏法のことを知らない、聞いたこ とがなかった、という人であっても仏法に従っていないということ自体、仏法に反している、外れているということになります。

つまり、仏法 に従っていない人は、誰一人の例外なく、すでに、罰によって種々の不幸を受けているのであります。

正しい法に背き続けていくと・・・
事実、自分自身も含め世の中の人々の姿を、よくご覧ください。たとえ、うわべが幸福そうに見える人であっても、一歩、内側まで立ち入って みれば、経済的な苦しみとか、病苦、家庭不和、対人関係の悩み、人格的問題、性格的悩み、など、誰もが必ず、さまざまな問題を抱え、悩み 苦しんでいるではありませんか。

これこそが、正しい仏法に背いている罰なのです。この厳然たる罰を知らず、また知っても、重ねて背き続けていくならば、なお重い不幸の 原因を積み重ねることになってしまいます。

そして、最後には、”頭破七分”といって、物理的に頭部や脳を損傷して非業の死を遂げる、ある いは、心が常に不安と苦しみにさいなまれて通常の生活ができなくなる、精神分裂やノイローゼ等の精神異常をきたす、など、自分の人生を 破滅させてしまうほどの結果となるのであります。

さらにいえば、国家・社会も、個人の集合したものでありますから、もし、国中に正しい仏法に背く人が充満した場合には、政治・経済も世情 ・治安も乱れ、人災・天災等が続発して、ついには一国が衰亡していく事態を招くことになります。

したがって、真の幸福を願うならば、まず、不幸の根本原因である、邪宗教を捨てて、願って正しい仏法を信仰させていただくことが、もっとも大切であります。

4、絶対的幸福への道
では、正しい仏法を信仰して得られる幸福、利益とは、どのようなものであるのか、少々説明をしてみましょう。

自分の中に仏の生命を開発する

まず、日蓮大聖人の顕された御本尊を信仰するなら、御本尊と私達の生命とが相呼応して、私達の生命の中に仏界が湧き上ってきます。仏界と は、常・楽・我・浄といって、崩れることのない自由自在の生命活動(常)、生きていくこと自体が美しいという絶対の幸福感(楽)、何物に も紛動されない円満で強靭な主体性(我)、何物にも染まることがない清らかな生命(浄)という、四つの徳性に象徴される、最高の生命力で す。

この仏界を、自分自身の生命の中に開き顕すならば、それが私達の肉体面・精神面に作用して、力強い活動力と、勝れた知恵の働きを発揮し始 めます。そして、これを現実生活の原動力として生きるときに、いかなる人生の荒波・苦悩をも打ち破り、解決していけるのであります。

経済面・健康面・精神面と三拍子そろった幸せ
その具体的な姿を、いくつか、経典等の中から挙げてみますと、仕事の成果が大きく上がるようになる。所得が増加して衣食住に困ることが なくなる。世間において上長の位を得る、常に生き生きとした健康体になっていく、生まれついての業病すら克服できる、ましてや、それ以 下の軽病はことごとく治癒していける、寿命によって死ぬべき命も、延ばすことができる、短期で怒りっぽい性格や、愚痴が多く嫉妬深い性格 等も改まって立派な人格者へと向上していく。

等々、要するに、経済面・健康面・精神面と三拍子そろって、あらゆる悩み・苦しみ・行き詰まりを解決していける、というのであります。「そんな馬鹿な」、とか、「信心で病気が治ったなら医者はいらなくなるではないか」などと思う人もあるかも知れませんが、よくよく考えてみてください。

私達の人生というのは、所詮、自分自身が全ての本となっています。つまり、仕事をこなしていくのも、周囲の人々と付き合っていくのも、他ならぬ自分自身であり、また、病気といっても、それを治していくのは、自分自身に具わる自然治癒力でありますから、結局、すべては自分にかかっている、といえるのです。

その、一番の本となる自分自身の中に、仏界という最高の生命力を湧き上らせれば、その働きによって、物心両面にわたり人生が改まっていくことは、むしろ当然の道理でありましょう。

それ故、正しい仏法を信仰する者は、いかなる人生の悩みや問題をも解決し、、また願いをかなえていくことができるのであります。

それは、まさに、前に挙げた常・楽・我・浄そのままの人生、すなわち、何の不安もなく自由自在に生きていく中に、生きることの歓喜と、力強い生命力が溢れ、しかも勝れた人格を自ずから形成していける人生、であるといえるでしょう。

身を以て検証してみよう
論より証拠、正しい仏法を自ら試みた人たちの体験を聞いていただければ、ここに申し上げたことが嘘ではない、とお判り頂けると思います。

その上で、よくわからない点、疑問な点などにつきましては、既に信仰してきた人々に遠慮なくご質問いただき、ある程度、納得がいったならば、今度はあなたご自身が身を以て検証してください。この正しい仏法を持つところに、必ずあなたの悩み・行き詰まりは解決し、人生が大きく開けていくことは間違いありません。


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