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(無題)

 投稿者:mmm  投稿日:2018年 5月 4日(金)17時37分7秒 pc122138.ztv.ne.jp
返信・引用
  崩れそうな家で必死に踏ん張っている

人生とは何かを望みそれを叶えていくものではない
努力して掴み取ろうとするものでもない
「起こった出来事を経験すること」
それが人生だ

そしてそれがあなたという存在である
勝手に起こる出来事に
ただ受け身でいること
そこに何の予測もなければ心配もない
不安もないし期待もない
事実それしかない

だけどもあなたの自我が勘違いをしているから
それを崩す必要がある
あなたは過去の悔いや痛み悲しみ、
そんな材料でできた「家」の中にいる

その壁の右側は
「子どものころ頑張ったのに馬鹿にされたこと」
その天井の隅っこは
「好きだった人に裏切られたこと」
床のあそこらへんは
「お金も休日の時間も減っていくという虚しさ」
あなたはその家の中で外に出ることすらせず
ただじっと耐え忍んでいる

何か楽しいことをしようとも
耐え忍んでいることが前提としてある
まったく楽しみ切れない
家の中の明かりを灯すことに必死なのだ
明かりが消えたら闇
あなたは怖い

もうなんの為に生きているのかわからない
だからせめて
明かりを消さないように
明かりが消えないように
もっと明かりを求め続けて
自我という家の中で必死に耐え忍んでいる

あるとき外から地響きが聴こえてきた
凄まじい轟音
家の揺れはどんどん大きくなり
このままいくと家が崩れ落ちるのは明白だ

「こんなに頑張って生きてるのに
家まで壊されるのか!! 私のすべてがああ!!」
崩れようとする壁を全身で押さえるが
天井の瓦礫で周囲も見えない
築き上げてきた「自分自身」が
そんな突然の出来事で崩されてしまうことが
あなたは許せなかった

耐えられなかった
これまでの人生の様々な記憶が
轟音とともに崩壊する家の中で蘇る
あんなこともあった
こんなこともあった
あれは嫌だった

ずっとつらかったな
思えば家の明かりを
絶やさないようにすることだけ
それだけのために生きてきた
なぜなら闇こそ恐怖

別にいまの職業も生活も
望んできたものではない
ただ安心という明かりが欲しかっただけだ
でもその明かりはいつも不安定だ
消えたときもある
その時は慌てて闇の中を探って
次の明かりを見つけてきた

もし明かりがなくなったらどうしよう
いつもその不安ばかり
でも新しい明かりが着いたばかりのときは
しばらく消えないことを知ってるから
明かりのことを忘れることもある

そんなときは気持ちが楽になったりもした
だけどもいつもいいところで
その楽しい時間は奪われてきた
明かりが消えそうになるからだ
「早く次の明かりを灯さないといけない」

その暗い家に支配される人生だった
さて
崩壊寸前の家の中で
あなたは怒号の叫びを上げる
揺れはさらに大きくなる
もう限界だ!!崩れる!!!

外は明るかった
太陽が隅々まで降り注ぎ
見たこともないほど明るかった
一体何を頑に守り続けてきたのだろう
これはよく語られる「悟り」の手引きだ

出来事は起こる
あなたは出来事を経験するためにいる
だが出来事に「善し悪し」をつけて
自我という家を築き上げてしまう
異性に笑顔でじっと見つめられたら
気分はいいが
同性にそれをされると気味が悪いとか
自分を馬鹿にしているんじゃないかとか
いやいや、私に気があるんだろ?とか
人間に見られるのは嫌だが
動物なら見つめられたら愛情がわくとか

どれもただ何かが
あなたを「見た」だけのことだ
出来事に意味付けをするということ
それは家の中にいるということ
出来事をただ通過するものとして
受け取るとき
あなたは家の外にいる

ただ過ぎ去るもの
それを経験するためにあなたはいる
これはあくまで主観的な見解だがね
実際は「過ぎ去るものがあなた」だ
経験そのものが「あなた」であり
そこには経験もなにもない

ドンと常に「それ」がある
もしあなたが
ひとつひとつの「経験」に意味をつけ
それに振り回されているようであれば
とても馬鹿らしいことだ
家の中で必死に明かりを灯そうとしている

あなたは求めるものではない
起こる出来事を経験するだけでいいのだ
意味付けせず
ただ起こる出来事を通過させていく
それが「家」を持たずにいられる方法となる
幸福は家の外にある

家の外こそ、
あなたの無限に広大な住まいだったのだよ




 
 

(無題)

 投稿者:mmm  投稿日:2018年 5月 1日(火)09時23分52秒 pc122138.ztv.ne.jp
返信・引用
  この世の真実を知る


今日は瞑想のはなし
私はあらゆる場所で瞑想をする
座ってボケッとすることだけが
瞑想じゃないよ
そこに起こっていることに
意識を向けること、それが瞑想だ

歩いているときも
レジで並んでいるときも
人と会話をしているときも
起きているすべてに意識的になる

つまりすべて観察している
五感に飛び込む周囲の様子から
もっと身近な世界である、肉体の動き
そしてやってきては
去って行く思考まで私は意識を向ける
意識の光を当てる

するといつもあることに
気がついてしまう
例えば思考を眺めていると
自分はどうにも動けなくなるのだ
まったく動けなくなる

これはつまり普段は思考と同化しており
その思考の通りに自分が動いていると
錯覚していることを意味する
だから思考そのものを眺めるとき
まったく動きようがない

だが体は動いている
思考は巡っている
でもそれらを見つめる限り
私は何一つ動けない
どういうことか
わかるかね?

体も思考も動いているが
私はまったく動けない
いつも伝えていることだが
頭でどれだけ念じても
指一本動かない

だが実際に指が動いているときとは
あなたはそれを見ているだけなのだ
見ている結果を
自分が動いたとしている
無意識、という様子がある
人は日常生活の中で99%以上が
無意識状態であるといわれている

トイレで用を足すとき
あなたは特に意識せずズボンを下ろす
ズボンを下ろすときの腕の動き
足が床を捉えている動作
体が自動的にそれらの行動を起こしている

そう、すべて自動的に動いている
あなたはそのロボットに
完全に任せている
そこに気付きなさい
だが勘違いしてはならない

「肉体は私ではないのだから完全に断ち切る」
としたところで
突然後ろから押し倒されたら
あなたは地面に腕を立てるなり受け身を取る
それはとっさに起こる
そしてあなたはいう

「何ということだ、
まだ私は自分ではないこの肉体を
守ろうとしている」
そうじゃない
いいかい

体が勝手に動いているのだ
体が自らを保護しようと動作した
それは「あなた」ではない
そこに生きている純粋な生き物
それが自分の体を守ろうとした

諸行無常
すべては過ぎゆくもの
この言葉の真の意味とは
「動き」のことだ
すべては動いている
変化とは動きのこと
動きの中にいつもいる

エネルギーのダイナミズム
それがただ起こっているのだ
あなたが自分の
すべての「動き」に意識を向けるとき
その肉体ですら
勝手に動いていることを知る

風に舞って種子が落ち
そこから芽が出て育つ
まるで意思を持っているかのように
植物は陽の光や雨を受けて育つ
朝が来れば花や葉は開き
寒くなれば葉を落とす

どこにあなたのコントロールがある?
その肉体も同じなのだよ
その思考も同じ
思考が「どんより」という
色を帯びているとき
あなたは自分がいまネガティブだとする

世界とは動きのことだ
だが唯一、動かないものがある
それはそれら動きが起こる「空間」
つまりあなたのことだ
あなたは動かない
一歩も動いていない
この事実を悟りなさい

すべてに意識の光を当てることで
この単純なトリックがわかるようになる
そこにある思考を自分だと思っていたのだと
そこにある肉体を自分だと思っていたのだと
すべて「動き」なのだ

あなたという不動の中に
すべては動いている
無意識を断ちなさい
闇に意識の光を灯しなさい
どこにも「自分」はおらず
ただ世界という動きを
眺めているだけだったことに
気がつくだろう








 

(無題)

 投稿者:mmm  投稿日:2018年 4月24日(火)21時27分45秒 pc122138.ztv.ne.jp
返信・引用
  人生を遊ぶと望みが実現していく


遊ぶということが何より大事だ
休日の過ごし方のことではない
仕事も食事も誰かとの会話も
そこに「遊び心」が含まれているかである

そうであるときあなたは消えて
流れだけがそこに現れる
すると人生は最高に充実したものとなる
だが遊ぶとはなんだろう

それは「なりきる」ということだ
物事を為すとき二つの段階が出てくる
まず外部の物事に囚われて
己を見失っている状態が起こる

ここで見失われるのは主体性であって
主体性を外部へ引き渡すと同時に
物事に抵抗する自我が内部で強まる

そして次にその抵抗する自我が消えて
起きている物事と「ひとつ」になれる
高次の段階へ進むことができる

最初は必ず物事に応じなければならない
ゲーム(関係性)が始まらないからだ
大事なのはそのあと
囚われたまま消耗していくか
それともその物事に反発する自我を
落として「それそのものになれるか」である

人々の多くは為すべき物事がそこになくとも
常に外の物事に囚われている
誰かの言動を目障りに感じたり
未来や過去の思いに煩っていたり
よって反発する自我が
常に育まれている状態にある

それがそのまま「人生の重さ」となる
仕事が捗るとき
料理などの家事が楽しいとき
なぜ「軽い」のかといえば
反発する自我が消え失せているからだ

自分自身から歩み寄ろうという姿勢が
まず外部から主体性(光)を取り戻し
そしてその主体性によって
物事そのものと溶け合うことが可能となる

そのとき「自分(影)」は消え去っている
言いかえれば自分を落とせないときほど
外の何かに影響されているのである
建物の影のようにそれ自体では
どうにもならないものが自分であるといえる


1.

禅では「頭を切りおとせ」といわれるが
純粋に行為そのものであれということだ
人は何にでもなれると言われるのは
それは何にでもなりきれる、

すなわち握りしめている自分をやめる
という逆説にある
人間関係やお金の問題を
義務的に捉えているならば
そこに遊びはない

自分が存在し物事に対立している
つまり「遊び」の気持ちがあれば
どのような辛い現実でさえも
それを無力化することができるのだ

そしてその無力化した現実のなかでは
もはや遊び続けることすら不要となる
なぜなら遊ぼうとする以前に
「遊んでいる宇宙」が
そこに姿を現わせているからである


素晴らしい映画の条件には役者が完全に
役に入りきっていることがあげられる
そこにはストーリー(流れ)だけがある
ステージに上がるミュージシャンや
感動を与える恋愛小説家は
その美しい創作(流れ)は
彼らが「なりきれている」ときに実現する

もし彼らが私情を創作に
挟み込んでしまえば
途端にスランプとなるだろう
流れが封じられるからだ

作品(遊びの結晶)はおろか
彼ら自身も流れ出すことができなくなる
だからいいかい
仕事にしろ家事にしろ
誰かと過ごすにしろ
そこで起きていることと「ひとつ」になること

その姿勢に努力するといい
老子のいう無為の為
すなわち無努力のための努力とは
これのことである

ならば無為自然に流れることができる
人生はお気楽になり
あなたはただ愉快に眺めているだけで
そのエッセンスがどんどん結晶化していく
以前からこうであってほしいと
願っていた様々なことが実現していくようになる

反発する自我がいたからそれは相対的に
「願い」として宙に吊られていたのだ
だから反発をやめれば
それはストンと足元に落ちてくる

つまり実は最初から
願いは叶っていたのである
そのことに気がつくのだよ
あなたはただプレイするだけでよかったのだ
それに気づけることが
遊ぶことの素晴らしさであり
「流れそのものになる」ということなのである




 

(無題)

 投稿者:mmm  投稿日:2018年 4月 1日(日)15時54分21秒 pc122138.ztv.ne.jp
返信・引用 編集済
  光の洪水2 -我々の本当の姿

前回からの続き
いつも記しているように
出来事と体験がワンセットで起こる
つまりその関係性、
発信と受信が「交信」するように
出来事も体験も実はなく
関係性だけが在る

関係性とは感情、
もっとわかりやすく言えば
知覚のことだ
察知する感覚、
歩いたときの足の感じ
体が風を切る肌の感じ
体重の重みの感じ

移り変わる視界の感じ
歩くだけで様々な知覚が起こる
繁華街などを歩けば
多くの賑わう様子を察知する
人々、騒音、気温、
それらもすべて「知覚」の賜物だ

あなたはその風景があり
それを知覚していると思っている
これがそもそもの誤りなのだ
風景はなく
知覚だけがある
知覚が先にあり
認識が風景を創り出しているのだ

風景とは
「そのように見えている」に過ぎない
実のところあなたは一歩も動いていないし
動作をしたこともない
ただ知覚という光が
生まれは消え
訪れて過ぎ去る様子を
ただ眺めているだけ
ただ感じ取っているだけなのだ

世界がただ在るとは
光の洪水がただ在るということだ
光の渦の中
言葉を捨てたとき
つまり見えているものに
観念を与えないとき
そこに何が見えている?

ただ「何か」が渦巻いている
さらに言及すれば
その光の洪水を察知しているのではない
光のひとつひとつ自体があなたなのだ
関係性があるのみ
つまりゼロだ

主体も客体もなくゼロ
ないということがワンネスだ
古来の教えでは
大いなる意識は「知」であると説いている
知は確かに全知だ
だけども辞書のようなものとすれば語弊がある
そうなると限界があるからだ

「知る対象」ではない
知とは、存在する知識のことではなく
知覚、それがただあるのだ
何もないところに発生する知覚、
だから無限
知る対象も知る者もなく
ただ知覚がある

その知覚が光、その洪水が真実だ
無数の光で溢れている
通常あなたはそれを認識しない
あなたという自己も無数の光のひとつだからだ
だが何かの光に意識を向けるとき
そこで初めて 光→認識→幻想へと繋がる

マインドという光が幻想を生む
コンピューターの言語と同じ
何かの記述があり
それをコンピューターが翻訳し表現する
HTMLならば
#FF0000を赤とする
それがマインドの働きだ

だが実際は何もないスクリーンに
#FF0000という光があるだけなのだ
その光は至福
人間のあなたが知るすべて
どんなものでも生み出すことができる
ただマインドが「赤」とするばかりに
「これは赤だ!」と確固たるものと記憶し
あなたは「現実という制限」を感じることになる

ブラウザのキャッシュが溜まれば
誤作動の原因となるように
マインドの記憶が蓄積されれば
「赤は不幸」などと勝手に理由を付ける
銀行預金が減っている
支払いができない

それはマインドの理由付けだ
スクリーンに意識を向けてみなさい
銀行、預金、数字、支払う
そういう単一な要素の構成があり
もっと深く意識を向ければ
それらが何の意味も持たないことに気付く

何の意味もないことがわかったとき
あなたは至福なのだ
すべて何の意味もない
すべてどうでも良いことなのだよ
真の自由がそこにあり
あなたは常に満たされていた

だから無限の喜びで溢れている
ただ光の洪水がある
知覚=光だ
光の総体があなたである
その光の中のひとつを
自分自身としてしまっている
つまりその肉体、思考のあなたのことだ

目の前の赤とんぼを見て
あなたは赤とんぼだと認識する
それと同じように
あなたはあなたを認識してしまっている
だからそれはあなたではない

繰り返すが
泣く、笑う、幸せ、不幸といった「感情」は
幻想なのだ
その根源には何がある?
あなたがある光を知覚し
「これは幸せというものだ!」
「これは悲しいというものだ!」
とマインド変換をした結果が感情だ

つまり
ポジティブだろうがネガティブだろうが
それは変換結果であり
最初に到来した「何か」は
ただ満たされた光だったのだよ
そこだ

そこを感じ取れるようにしなさい
見ている風景
聴こえる音
それらすべてが「変換後」だ
変換前に何がある?
あなたは一体どこにいるのだ?
「すべて」とは何だ?
さあ、もう少しだよ





 

(無題)

 投稿者:無々  投稿日:2018年 4月 1日(日)15時53分32秒 pc122138.ztv.ne.jp
返信・引用 編集済
  光の洪水 -我々の本当の姿

ここしばらく続けているテーマから
ひとつの核心を記そうか
あなたが出来事を体験する
出来事はなんでもいい
目の前を美女が通る
愛らしい犬を触る
コップを持つ

それら出来事があなたの世界に起こる
では「出来事」とは一体何なのだろう?
出来事はあなたが
意識を向けなければ起こらない

あなたが意識を向けた先から受信したもの
つまり受け取ったものだ
それが出来事だ
だから「出来事」とは
あなたの受け取った印象、
すなわち感情と言われているものだ

言い換えば
出来事などなく受信もない
ただ「感情」だけがある
それがあなたの中に発生したに過ぎない

突き詰めれば「あなたの中に発生した」すらない
感情こそがあなたなのだ
感情が出来事であり
出来事は後付けの具現化である

つまり、ただ感情があっただけ
だからあなたが生きているその世界とは
「感情の渦」なのだ
物も人もなく
ただあなたが発生している感情だけが
無数に溢れかえっている

いつもの現実パターンはこうだ
感情のひとつをキャッチする
それを言語化する、例えば「可愛い」など
そしてなぜ可愛いかを連想していく
犬だからとか、美女だからとかね

重要なのは
最も最初に受信した「何か」だ
「美女」と認識する直前、
あなたは「ある感情」をキャッチしている
「おっ!」みたいな、
そういう形容できないものだ
その時点ではまだ「美女」はいない

あなたが「おっ!」の理由を創り出す
そこからはマインドの理由付けへ発展する
つまり世界が創られる
つまり「おっ!」だ
それはあなたの思考を経由していない
マインドの理由付けもない
ただ「おっ!」が突然生まれた

コップを持ったとき
その感触が最初にある
そして「コップを持っている」という認識が来る
その「感触」の段階
それは「おっ!」と同じものだ

つまりマインドの認識を介することで
あなたのその物理世界がある
ではマインドが変換する前までの状態
そこには何があると思う?
感情の洪水だ

これはとても重要な記述だから
理解できなくても覚えておきなさい
あなたは一歩も動いていないし
何かをしたこともない
ただ無数の光の点滅のような
そういう波動のようなものが溢れた中にいる

あなたという認識自体もそのひとつだ
右手を動かしたことですら
その印象を生み出し見ているだけなのだ
「右手」も「右手を動かした」もない
美女が目の前を通っているとき
事実はこうだ
「お!」という光がただ在る

あなたのマインドは「おっ!」の理由を創る
そしてあなた好みの美女が視覚化される
※実際は視覚もない
その光の点滅が
人間的に言うところの「感情」というものだ

印象でも雰囲気でもいい
とにかく姿形のないもの
あなたが楽しいとき
心は楽しいのだろう
だが楽しいってどんなものだ?
表現ができないだろう

それが光の点滅のひとつだ
それをキャッチしている
躍動的な感情だけではない
あなたが歩けば
足の裏の感覚がある
疲れるという感覚もある
それらも「感情」だ

つまりすべては光の点滅だけ
それも無数に生まれては消えていく
人の行き交う通りにあるカフェで
腰掛けているとき
様々な情報が飛び込んでくる
多くの人が目の前を歩き
多くの音が耳に入る
そのとき
あなたは無数の光の点滅を受信している

事実を書けば
人も音もない
ただ無数の受信だけがあるのだ
あなたの感情と呼ばれるもの
感覚と呼ばれるもの
その洪水の中に
あなたは在るのだ

あなたの世界のすべては
その洪水の中だ
ひとつの光に
あなたは「これは楽しいものだ」
「これは嫌なものだ」と連想付ける
それがマインドの仕組みだ

だがね、すべて素晴らしい光なのだよ
あなたが思考的に
良いもの悪いものと判別を与えているだけで
それは完全に間違えている

あなたが不幸だと思っている感情
それもマインドが不幸としているだけで
不幸などではない
素晴らしいものだ

だからあなたは常に
「素晴らしい」という中に包まれている
光の洪水の中にあなたは在る
そのすべての光が
あなたの体験していることのすべてなのだよ

不幸などないし
ただ満たされているということしかないのだ
あなたは光の洪水の中に在る
それを体験しなさい

マインドの錯覚に騙されてはならない
もっと本質的にその「出来事」を感じなさい
意味も理由もない出来事の本質、
つまり「おっ!」の部分にどっぷりと浸かる
出来事のひとつひとつを注意深く観察しなさい

その「出来事」は本当に起こっているのかね?
あなたが経験している結果しかないだだろう
生とはただ「あなた」を体験することなのだ
ポジティブもネガティブもない
ただ光の洪水がある

「見る」すら光の受信だ
あなたが部屋を見る
それは「見ている」のではない
光を受信しているのだよ
受信したものに
マインドが「見ている」としている

もう何も怖がることもない
「怖い」もマインドの理由付けであり
そこにあるのは
あなたが生んだ「光」のひとつだ




 

(無題)

 投稿者:無々  投稿日:2018年 1月 7日(日)22時35分8秒 pc341231.ztv.ne.jp
返信・引用 編集済
  人生を遊ぶと望みが実現していく


遊ぶということが何より大事だ
休日の過ごし方のことではない
仕事も食事も誰かとの会話も
そこに「遊び心」が含まれているかである
そうであるときあなたは消えて
流れだけがそこに現れる


すると人生は最高に充実したものとなる
だが遊ぶとはなんだろう
それは「なりきる」ということだ

物事を為すとき二つの段階が出てくる
まず外部の物事に囚われて
己を見失っている状態が起こる

ここで見失われるのは主体性であって
主体性を外部へ引き渡すと同時に
物事に抵抗する自我が内部で強まる
そして次にその抵抗する自我が消えて
起きている物事と「ひとつ」になれる

高次の段階へ進むことができる
最初は必ず物事に応じなければならない
ゲーム(関係性)が始まらないからだ


大事なのはそのあと
囚われたまま消耗していくか
それともその物事に反発する自我を
落として「それそのものになれるか」である

人々の多くは為すべき物事がそこになくとも
常に外の物事に囚われている
誰かの言動を目障りに感じたり
未来や過去の思いに煩っていたり

よって反発する自我が
常に育まれている状態にある
それがそのまま「人生の重さ」となる

仕事が捗るとき
料理などの家事が楽しいとき
なぜ「軽い」のかといえば
反発する自我が消え失せているからだ

自分自身から歩み寄ろうという姿勢が
まず外部から主体性(光)を取り戻し
そしてその主体性によって
物事そのものと溶け合うことが可能となる

そのとき「自分(影)」は消え去っている
言いかえれば自分を落とせないときほど
外の何かに影響されているのである

建物の影のようにそれ自体では
どうにもならないものが自分であるといえる


1.
禅では「頭を切りおとせ」といわれるが
純粋に行為そのものであれということだ
人は何にでもなれると言われるのは
それは何にでもなりきれる、

すなわち握りしめている自分をやめる
という逆説にある
人間関係やお金の問題を
義務的に捉えているならば
そこに遊びはない

自分が存在し物事に対立している
つまり「遊び」の気持ちがあれば
どのような辛い現実でさえも
それを無力化することができるのだ

そしてその無力化した現実のなかでは
もはや遊び続けることすら不要となる
なぜなら遊ぼうとする以前に
「遊んでいる宇宙」が
そこに姿を現わせているからである


素晴らしい映画の条件には役者が完全に
役に入りきっていることがあげられる
そこにはストーリー(流れ)だけがある
ステージに上がるミュージシャンや
感動を与える恋愛小説家は
その美しい創作(流れ)は
彼らが「なりきれている」ときに実現する

もし彼らが私情を創作に
挟み込んでしまえば
途端にスランプとなるだろう
流れが封じられるからだ

作品(遊びの結晶)はおろか
彼ら自身も流れ出すことができなくなる
だからいいかい
仕事にしろ家事にしろ
誰かと過ごすにしろ
そこで起きていることと「ひとつ」になること
その姿勢に努力するといい

老子のいう無為の為
すなわち無努力のための努力とは
これのことである
ならば無為自然に流れることができる

人生はお気楽になり
あなたはただ愉快に眺めているだけで
そのエッセンスがどんどん結晶化していく
以前からこうであってほしいと
願っていた様々なことが実現していくようになる

反発する自我がいたからそれは相対的に
「願い」として宙に吊られていたのだ
だから反発をやめれば
それはストンと足元に落ちてくる

つまり実は最初から
願いは叶っていたのである
そのことに気がつくのだよ
あなたはただプレイするだけでよかったのだ

それに気づけることが
遊ぶことの素晴らしさであり
「流れそのものになる」ということなのである



 

(無題)

 投稿者:ヤマト  投稿日:2017年10月 2日(月)21時38分40秒 pc122138.ztv.ne.jp
返信・引用
  しゃぼん玉がはじけるとき

他人と接するときの最良の方法とは、目の前のその相手とは「自分の心が映されたもの」だと認めながら関わることにある。
どんな人であれどんなシチュエーションであれ、相手を自分だと思って話しかけてみる。相手を自分だと思って応じてみるといい。
言動だけに限らず、その人の容姿や雰囲気といった印象などのすべては、あなたの認識と判断によってそこに表されている。家族や会社の上司、苦手な顧客、街ですれ違うひと、レジ越しの店員など、あなたの前に現れるすべての人は「あなたに与えられた姿」としてそこに存在する。
つまり全部あなたのことなのだ。それは人だけじゃない。世界全体そのものが、そういうものであるのだよ。
だからこの世が酷い世界だと思うならば、それは日頃のあなたが「酷くないと思う自分」を保持しているからであり、ゆえに世界はその対比として酷いものにみえるようになる。自分のことを惨めだなと思っているならば、他人のことが羨ましくみえたりする。小さなことに幸せを感じたり、人の温かみが身に沁みることが増えたりする。
1.
この宇宙はプラマイゼロ、均一を保とうとする性質にあるということだ。言い換えれば世界はいたって「フラット」なのである。山があれば谷がうまれる。何かが輝こうとすれば闇を必要とする。不幸であるならば幸せがどこかに存在すると感じられる。
だからあなたが何らかの性質をもって際立つほど、その対比としての他者や現実がそこに現れることになる。宇宙は「あなた方」を抱き合わせのセットとしてパッケージするわけだ。凸があるときその隣には凹がすでに存在しているのである。
あなたが前へ一歩進めば、風景はあなたに向かって一歩進んでくる。あなたが腕を動かせば、腕があった空間は即座に周囲の光景に埋められる。こうした「自分が動作している」として錯覚している背後には、常に全体との密接な連動がある。
また恋人が欲しいと思うほど、それが実現されない要素が露わになってくる。異性を意識するだけ自分の性別への意識が強くなる。逆にいえば男女隔たりなく友人の多いひとは、自分がどちらの性別であるかを意識していない。
お金も仕事もなんでもそう。この「宇宙の原理」を常に意識しておくことだ。必ず表裏あわせて「フラット」となる。この原理を理解すればお金や異性の問題に苦悩することはなくなる。
つまり他人や出来事など、目の当たりにしている現実を「自分の片割れ」だと思って接することで、あなたという際立ちがどんどん解消されていくということだ。つまり本来の調和に還元されていくようになる。
2.
だからあなたが望みのものを手にするとき、それはあなた自身がその渇望を失ったときであるのだ。いまそこに空気があるように、あなたが眠っていても心臓や胃腸は活動しているように、求められるものはすべて宇宙の調和に向けられたものである。
「あれが欲しい、あのようになりたい」とあなたは願うけども、それは結局はどういうことを目指しているのかといえば「願う自分」が消え去ることなのだ。
煩悩を落とせば生きていくのに多くのものを必要としないと教えられるけども、究極的にいえば「何も必要としない」のである。それこそがすべての願望が叶った状態であり、全一という総体がただ在るだけとなる。
全一という観点からみれば、人間とは生まれてきたこと自体が「際立ち」であることを意味する。つまり生き続けること自体が抱え続ける問題なのであり、生きていること自体が「不幸」であるのだ。よって人は幸福を求める。だがそれは己の消滅を目指していることに他ならないのである。
3.
「不幸とはなにか?」といえば、それこそが生なのだ。
あなたはその苦しい思い(コンプレックスやトラウマ、うまくいかない現実など)を持っていられるからこそ、いま生きているその世界を映し出せている。現実生活も他者との関わりも自分の容姿や考え方もそうだ。
「不幸が完全にどこかへいかなくては人生が楽しめない」「いま抱えている問題が片付かないと人生がはじまらない」いつもそのように考えているだろうけども、そうではなく、いま抱えていることこそがこの世のお楽しみなのである。それ以外になにがあるというのかね?
いつか人生の本番がくると準備しているけども、その準備していることが本番だったのだ。よって「いま」を逃すと人生そのものを逃し続けることになる。

もちろん人生の問題を跳ね除けていくことも「不幸を生きている」ことだけども、そのすべての障害物が取り払われた先にも己が生きている限りは必ず荒野が広がっている。だから不幸を追い払うことに希望をみるのはナンセンスなことだといえる。目指す「約束の地」は永遠に見えてこない。なぜならすでにここがその場所であるからだ。モーセはヘブライ人たちを40年も騙して連れ回していたのではなく、気づかせようとしていたのだ。
だから生を楽しむこと、すなわち問題を楽しむこと。それが人生を更新していく唯一の方法なのである。モーセは己を様々な姿に変えて、あなたの目の前に常に現れていることに気づかなくてはならない。
4.
展開や起伏のないテレビドラマや映画はつまらないだろう。延々と何時間も風に揺れる樹木が映されているようなものだ。人間が生きる「心の幻想世界」が覚めたあちら側はずっとそんな様子であり、それは内容がないゆえに作品としてそもそも成立しない。
つまり人間の世界とは、己という際立ちに対して生ずる幻想世界とのやりとりが珠玉のストーリーを紡ぎ出しているのである。それが作品(人生)なのだ。一本の「フラット」なのだ。私たちは映画館の入場料を払って、価値ある作品(調和への道程)を観るためにこの指定席に座っているのである。
作家や芸術家、政治家、実業家、みんな様々な職業を生きるけどもそれ自体がトラブルなのであり、目の前の物事とどのように向き合っていくかという葛藤こそが、彼や彼女のその生涯となる。一本の映画として捉えるとわかりやすいはずだ。
この話を他人事として聞いていてはならないよ。あなたのことを私はずっと話しているのだから。この文章を読んでいるいまがひとつのシーンであることを自覚しなければならない。
いまみえている世界を正しく生きること、つまりその課題に正面から向き合うことが現時点でのあなたの仕事であり、またそのように生自体(不幸自体)に自ら歩み寄ることで、不幸そのものへの認識が変わっていくようになる。世界への認識が変わるというのは、現実世界そのものの変容を意味する。つまりあなたが変わるから世界もまた新しい舞台を映し出すのだ。
そうしてやがて「あなた好みの世界」が映されたらずっとそこで悩み続けたらいい。「ああじゃない、こうじゃない」とね。ならばその映画は結末を迎えることなく、あなたを一生楽しませ続けてくれるだろう。
5.
だからいまの現実が望ましくないならば、そこにあるトラブルを愛し、黙って受け入れることだ。それは「他人にいいように使われろ」ということではなく、現実から目を背けずちゃんと物事を受け入れたうえで自分から動き出すことだ。それがあなたとモーセとの唯一の接点なのだからね。
そしてその不幸のなかで自ら生きようとするとき、あなたのなかで何かが目覚めるようになる。つまり風に揺れる樹木が、その一なる姿が、いま見えている現実の背後に「透けて」みえるようになる。
何かを美しいと思うこと、それは己と世界がひとつになっていることを意味する。つまり際立つ自己が落ちてそれに対応していた世界も薄まり、その「背後にあるもの」がただそこに感じられているとき、私たちは言葉にできない感銘を受ける。
つまりそれが「死ぬこと」なのだ。私たちが人生のなかで平安や幸福を求めているというのは、それは死を求めているということに他ならない。ゆえに「死と共に在ること」を古来の宗教は伝えてきたのだ。それは永遠なるハピネスとの融合であり、そしてそれはいまここで常に開き続けることができる。
すなわちこの波乱万丈な生とは「幸せに向かう道程にある」ということ、どんな人生でどんな状況であろうとも、必ず至福に到達するということである。なぜならすでにこの現実の背後でそれはずっと私たちを包んでいるからだ。私たちは自ら生み出したシャボン玉の泡のなかにいるにすぎず、泡の内側に映った自分の姿と語り続けている。だけどもその泡が弾けたときに最初からいたこの場所を思い出すのである。
?
色々大変だったけど全部いい思い出だった。いつかあなたもどんなトラブルも含めて、自分のみてきた人生のすべてを懐かしく思う日がくる。終わってしまえば何もかもがあっという間、夢のように過ぎてしまった、とね。
だからなるべく早い段階で、いまもここで不思議な世界に包まれているということ、その素晴らしさに気づくことだ。見えることや触れられること、この世が実現されているのは本当にすごいことなのだから。自分の手を引いて様々な光景を見させてくれたあのモーセとは、あなた自身のことだったのだよ。
 

(無題)

 投稿者:ヤマト  投稿日:2017年 9月24日(日)21時35分15秒 pc122138.ztv.ne.jp
返信・引用
  冷たい世間をホットに泳ぐ

生きていくことに辛さがあるだろう
人々は幼少に教えられたほど優しくないし
なんだか得体の知れない怖さがある
今回はそんな「冷たい世間」の解明と
それに振り回されず抜け出る方法、
いわゆる「目覚め」について進めていこう
?
1.
まず理解すべきなのは
世界は二重構造で
できているということだ
ひとつはこの現実世界の素材となる、
永遠に流れ続けるエネルギーの循環
それは不死性そのものである
もうひとつは
そのエネルギーの上層に覆うように漂う
思考という巨大なガスの領域となる
そのガスのなかで
私たちは人間世界をみている
大事なのは「自分」という存在も
他人と同様にそのなかで
「考えられているもの」だということだ
だから自分を特別視して
「自分から」世界を考えても自己矛盾に陥る
これをいかに理解できるかが
現実世界を突破するボーダーとなる
つまり自分を他の人たちのように
「他者化」することで
はじめてこの巨大なガス空間が
理解できるということだ
よく「混乱してきました」という
コメントがあるけども
それは常に「自分」を
握りしめているからに他ならない
そうではなく「自分」も他人と同じように
いまここに「考えられているもの」であること
それを踏まえなければならない
このガス(思考)の塊は人類が蓄えてきた
認識や判断、知識や知恵、
喜びや憎しみなどの感情で満ちている
つまり人間の世界を形成する
データバンクのようなものだ
このガスのなかで私たちは互いに交流し
そして普遍的な共通認識を
この世界にみることができるのである
共通認識といっても
実際は多様なデータが付随するから
同じものを見ても
その「見え方」は異なっているがね
?
2.
さてガスの中には大きな流れがある
川の主流みたいなものだ
多くの人々が同じ思想を採用し
つまり同じ思考に同化していることで
それが大きな川の流れとなっている
よって無意識に生きている限りは
それに流されることになる
みんなが良いというものに流され
そこから外れそうになると
不安で落ち着かなくなる
そうして集団による残忍な虐殺や
いじめ問題などが
平然と行われるようになる
昨日まで仲の良かった友人が
突然愛想が悪くなる
そして集団で自分を笑い者にし始める
だが彼らは「ただ真面目に」
そこへ参加しているだけであり
どこも間違えているつもりはない
まるで殺戮兵器を製造している会社で
優秀な業績をあげているサラリーマンのようだ
彼らは何も間違えてはいない
真面目に勤務することは
正しいことであるのだからね
ただ彼らは
自分がなにをやっているのか
わかっていないのだ
無意識に生きるということは
このような眠りにあるということである
こうした集団的な心理から派生して
「自分は不幸だ」「自分は理不尽だ」
という考えにつながっていく
だから自分を不幸にする者も
不幸にされている自分も
同じようなものといえる
?

3.
さてガスはこれまでの人類の
あらゆる思想が蓄積されているのだけども
なかにはこうした全体主義から離れて
独自の歩みを持った者のデータも含まれている
ふと落ちていた棒切れを握った原始の猿人は
最初はそれが何かわからない
自分はなにをやっているのだろう?
棒を握っていることに奇妙さを
覚えるのはなぜなのだろう?
いやまてよ
実は奇妙なのは棒を握ることではなく
棒を握ることを知らなかった
今までのほうじゃないのか?
じゃあ自分はいったい何者だったのか
何者のつもりでいままで生きていたのか
だけども怖い
これまでの常識(眠りの群れ)から
自分だけが離れることに
猛烈な抵抗感がある
そんな煮え切らない困惑のなか
その棒で何かを叩いてみたとき
彼のなかで何かがインスパイアされる
道具を使うということを知ったのだ
それは自分の道を開いたということである
そうして彼は「群れから離れる」ことができる
つまりみんなと一緒にいるのだけども
彼だけがみんなが眠っていることを
知っているということだ
最初は勇気が必要だった
その群れのなかで一緒に歩いていること
みんなと同じことをして
そこから離れないことが
幸せであるのだと思っていた
だがそうではなかったのだ
自分で考えること
自分で選択をするということ
それが
「不幸から逃れるだけの幸福」から
「自らで生み出され続ける幸福」へと
転回するのである
それが「目覚め」とよばれるものとなる
?
4.
幸い私たちには
その勇気ある猿のような先人達がたくさんいる
釈迦やイエスもそうだったし
芸術家も実業家にだってたくさんいる
相変わらず全体主義に眠らされた人類だけども
それでもわりと多くの思念体(個人)が
目を覚ましているのは
大衆的な考え方、ものの見方から離れて
自分なりに「他の考え方」をつかんだからだ
インターネットやグローバル化のおかげで
様々な情報が手に入るようになったのは
そのような者たちのおかげで
全体の底上げが成されてきているからである
以前は宗教も哲学も
国境を超えて正しく伝えられることは
難しかった
人の手を通るたびに改竄され
どんどん違うものになっていく
だけどもいまは秘伝や奥義などは
ごく限られた人だけのものではない
また世界各地の有志たちが
伝聞のなかの誤りの部分を正したり
研究を続けてくれている
みんなが正しい世界へ
人間が本来在るべき幸福な状態へ
その手助けをしている
彼らは自分たちが何者であるのかに
気付いているからだ
ネットができたから
目覚めた人が増えたともいえるが
そもそもこのような情報時代の
基盤ができていること自体が
目覚めた人々のおかげであるということだ
人類が冒険しなければ
未だにネットもなにもなかった
インターネットはそれまでの
大衆的なビジネスを破壊したけども
それは眠りに対する目覚めへの一撃だったといえる
イラクやシリアなどの紛争地域の
情報網としてネットは民間の命綱であるし
また我が国でもネットのおかげで
無知ゆえに他人に騙されることも
大きく軽減されてきた
こうして時代が新しい流れに移りつつある
つまり本流以外の流れが
どんどん力を増してきているといえる
しかしもちろん
「大衆心理」はまだ根強くあり
大多数がそれを振り切れていないのが現状だ
ネットで便利になったといっても
結局己が眠っているままじゃ
眠りの場所を変えただけにすぎない
我が国をあげてみれば過去の大戦での反省で
一度は取り戻しかけた目覚めも
自分は何もしなくても守られているという
高度経済成長の眠りに落ち
その眠りのままバブル崩壊、そして現代に至る
社会を支配する50歳代以上が
ほぼその傾向にあるために
この社会で生きる以上はどこへ行っても
その大衆性に巻き込まれることになる
至るところで「強烈な眠り」を誘発している
つまり現代人は誰もが眠りながら
ボロボロになっている様子にあるということだ
おかげで自殺者は多い
こんな苦しいことのために
生まれてきたのかとね
まあそりゃそうなる
私もそうだった
だけどもそれだけ時代や大衆の
奇妙さに気付いている人は
多くいるということでもある
何かがおかしいと思い始めている人が増え
それぞれがそれまでの常識を打ち破って
(つまり大衆の眠りに気づいて)
新たな境地を歩みだしている
その気づきが集まることで
そしてみんなが新しい思考を
採用していくことで巨大なガスのなかに
すなわち「人間世界」のなかに
新しい川が生まれるのである
しかしだからといって
自動的に導かれるのかといえば違う
無意識の眠りから目覚めなければ
先人の思考をキャッチすることができない
つまり目覚めた思考の流れへ
同化することができない
それはしっかりと覚えておかなければならない
?
5.
繰り返すけども私たちは「思考」である
満たされたエネルギーの中で
「自分は生物である」と考えているにすぎない
私たちは巨大な思考空間のなかに浮かぶ
多様な思念なのだ
人の数だけ思念があるのではなく
あなた自体が常に移り変わる思念なのである
だからあなたと誰かが同じ思念であること
それが集団心理の原理となる
たまに「おっとこんなこと思っちゃいけない」と
酷い考えが過ったりしないかな
それはあなたが考えたのではなく
そうした多様な思考が常に漂っているのだ
たまたまそれをキャッチしただけにすぎない
つまりそれに同化することが無意識性、
「大衆性の眠りにはまる」ということだ
また日々の現実も
いまそこで見えている世界も
怪我をした痛みも
風を感じる心地よさも
すべて「考えていること」なのであり
考えている本人も
考えられている対象も実在しない
ただ「考えていること」だけがある
そこにティッシュがあって
その1枚を手にするとき
視覚と感触を思考しているだけでしかない
しかし無意識であるゆえに
大多数の共通思念としてそれは受け取られている
だからティッシュを1枚手にすることに
「なんの感動もない」のだ
それは自分にとって「当たり前のこと」であり
神秘的な何かは見つけられない
それは思考のなかで思考をみているからだ
花をみて美しいと思えない
可愛い生き物の姿をみてなんとも思えない
それらは正直な意見なのだ
だが思考のなかでしか
判断することを知らないだけなのである
だから花をみて美しいという人は
他のあらゆるものにも美しさを見出す
それは思考の人には
まったく理解できないことだ
神秘なもの感じるときとは
思考を超えたその背後に流れる
エネルギーそのものに触れたときに起こる
理解を超えた崇高なものや
息を飲むような美しい光景
はっとさせられる人の姿
そうしたものは思考の向こう側を
そこに垣間見ているといえる
普段から思考にどっぷり浸かっていたら
つまり理由や意味だけに追われて生きていたら
人生に感動は皆無に等しいだろう
たとえばなぜ、あなたはそこで
この文章を読めているのか?
「それはスマホを操作したからです」
そんな返事をするなら
もうロボットでしかない
自分がいかに奇妙なことを言っているのかに
気づかなければならない
だけどもあなたがエネルギー循環の果てに
今生を終えるとき
つまり思考上で「時間」という概念が経過し
そして「死」を迎える間際に
だいたいのことは判明する
私が看取ってきた人々はみんなそうだった
「ああ、なんてことだ」
「もっと色々やっておけばよかった」とね
後悔の念しかない
だが私が来世がすぐに始まると伝えてやれば
安心して目を輝かせていたものだ
もしあなたが現世で現実を変えたいと思うならば
その無意識に流されている本流から出て
自分で「思考を選び取る」ようでありなさい
この「自分で選ぶ」ということが重要なのだよ
他者や社会の反応で生きるのではなく、
また不安であるならば
その不安を解決しようと躍起になるまえに
「なぜ自分は不安に感じているのか」
その根を刈り取ることに意識を向けることだ
すべては思い込みでしかない
そこにある現実は確かにそうだけども
この「確かにそうである」ことからすでに
「考えられていること」なのである
よって新しい思考の流れに乗ること
つまり自分の足でその大衆性から抜け出ること
反応で「考えさせられる」のではなく
「自ら考える」こと
その意味を理解することだ
?
6.
そうして自分の歩みを持つとき
背後に満たされているエネルギーの流れを
感じられるようになる
つまりすべては己だったのだと
どのような他人も出来事も全部自分であり
この全体が自分のことだったのだと気づく
聖書では「死からの復活」を
語られるけどもその真意とは
ある思考が別の思考に変わることを伝えている
あなたの見方がかわるとき
あなた自身はもちろん
関わる他者も世界の見え方も
なにもかもが変わる
なぜならいまそこに見えている現実も
それはあなたが採用している思考が
見せているものだからだ
つまりひとつの思考が多様的に
絡み合っているゆえに1つを変えることで
パズルが入れ替わるように変わっていく
自ら思考を選択するという
「意思」を与えるのは理性による自律性にある
だが無意識である限り理性は働くことができない
ゆえに常に意識的にあること
自分自身を常に内観していることが大事なのだ
望まない思考や感情をキャッチしたならば
それに流されないこと
不要なものは採用してはならない
それが現実のすべてを変える一手となる
あと間違えてならないのは
自分も他者も実在しないということ
だからそうした「外部」を
思考選択の基準にしてはならない
すべては「受け取られたもの」だ
自分や他者が
「いるように思えていること」が
その思考なのであり
その思考自体を変えなければ
思考の中で思考に溺れることになる
そこに「出口」はない
出口はその外側にある
つまり自らを飛び出す以外に
新しい世界は生じ得ないのである
いまこうしてこの記事を読んでいるのは
あなたにはその準備ができているということだ
あとはあなたが目を覚ますだけだ





 

(無題)

 投稿者:ヤマト  投稿日:2017年 9月23日(土)00時43分23秒 pc122138.ztv.ne.jp
返信・引用
  なにも恐れなくていい

いまそこに見えているものは
人であれ物であれ
あなたが意識を向けている対象の
その「現象」にすぎない
つまり対象そのものではないのだ
だから現象をどれだけ調べても
対象そのものにはまるで届かない
私たちはその「実体なき像」に対して
あれこれと人生のドラマを続けている
まさに幻をつかもうとしているみたいにね
じゃあその実体、
つまり意識を向けている「対象」とは
一体どういうものなのかと思案しても
それは知ることはできない
なぜなら知るという行為そのものが
「現象そのもの」のことであるからだ
どれだけ知ろうとしても
やはりそこには
ただ現象が浮かぶだけであり
どこまで追いかけても
「実体」は永遠に逃げていくだけとなる
人はそういうものに対して
意味や理由を見出そうとしているのである
もちろんそこからは決して
「答え」を見つけることはできない
だけども現象が
ここに浮かんでいることは確かだ
己の現実に現象があること
つまり「現にそれがある」ということの
その「きっかけ」は確かにあるということだ
?
1.
それはなんだろう?
己の意識は一体何を捉えているのだろう?
それは己自身なのだ
だからこの世は
「あなたのなか」なのである
どんなに憎い相手がいても
どれだけ悲痛な事件があっても
そのすべてはあなたという根源が
そこでそのように現象化しているもの
あなたの日頃の「知識や常識」が
現象が「着る服」となる
だけどもその大元となる芯の部分
つまりその裸体とは
あなたの「思い」でできている
「明るい気持ちで生きたところで
何も変わらない」
「気持ちを切り替えて
どうして問題が解決するというのか」
そんなことをあなたはいつも言ってるが
それは現象について考察しているだけだ
つまりある人について語りたいのに
その人の着ている「服」についてしか
語れていない
その人自身についての
「語り方」を知らないのだ
まあまさかその服のなかにいるのは
「自分だった」なんて
思いもしないのだからね
?
2.
さて今回の話で理解すべきポイントは2つある
すべてはあなたの「思い」であるということ
それがこの世の「実体」である
だから意味や理由を前提とした生き方は
お利口じゃない
そしてもうひとつは
その実体と関わるには
日頃の知識や常識が介されるということだ
つまり「実体」は信念という服を着て
あなたの前に登場する
だから明るく幸せな世界を望むならば
日頃からネガティブな情報や
陰鬱な気分にさせる娯楽を
極力遠ざける必要がある
だがそれに神経症になっても逆効果だから
うまく工夫しなければならない
だらだらとネットやテレビを観続けないとか
ひたむきに没頭できる何かに励んだりなど
外的な要素に「選ばされる」のではなく
暮らしの彩りを
自分自身の手で生み出していくようにする
そのクリエイティブな生き方が
人間の本来性であるのだ
それが「自然なあり方」であり
つまりそうである限り
宇宙と調和し続けるということである
人はすでにあるものに安心をするけども
何もないところに
何かを生み出そうとすることが大事なのだ
?
3.
あなたはもう何十年も何百年も
自分が映った鏡と向き合っている
たまに「違う服」に着替えては
その姿を見つめ続けている
もちろんいまもそう
あなたは鏡の前に立っている
会社にいても街を歩いていても
どこでなにをやっていてもそうだ
だからすべての中身は己であることに気付き
そして常に新しい夢を見ていけるように
古い観念の解決に
留まり続けないようにすることだ
そうしてどんどん人生を開拓していきなさい
つまり自分を信じることだ
この世は常に「あなたの現象」であるのだから
それ以上の「神」はいないのだ
「恐れなくていい」とよく伝えられるけども
それは無謀や無鉄砲に生きても大丈夫だと
いうことではない
そうではなく自分を信じるから
何も恐れる必要がないということ
すべてが自分であると気づいているから
何も恐れなくていいのだとわかるということだ
親鸞は南無阿弥陀仏と唱えたが
それは極楽浄土へ約束されることではない
ここが浄土であることに
気付くということにある
阿弥陀はいつもあなたを見守っている
それはあなたが阿弥陀であるから
己自身を加護するのだ
生まれてきては死んで、また生まれてくる
そんな「服」を
あなたは繰り返し着替えてきた
ここはひとつの秩序があって
私たちはそこに漂う雲のように
自分だけの世界を夢見ているだけなのである


 

(無題)

 投稿者:ヤマト  投稿日:2017年 9月21日(木)16時23分16秒 pc122138.ztv.ne.jp
返信・引用
   

(無題)

 投稿者:ヤマト  投稿日:2017年 5月25日(木)05時31分45秒 pc122138.ztv.ne.jp
返信・引用
  あなたがいるからこの世界がある

この手記のタイトル「あなたがいるからこの世界がある」は、たとえばあなたが重い現実を抱えているなら「私がいるせいで、みんなに迷惑をかけているのか」となるし、ハッピーであるならば、まさに心が世界に映し出されてると実感するだろう。
どちらもその通りだ。つまりタイトルは二面的ではない。あなたが気づかなければならないのは、朝も夜も、男も女も、幸せも不幸も、それを浮かびあげている「自分」という一元性に鍵があること。つまりこの世に責任は一切ないということだ。
?
1.
人生の問題を解決するというのは、たくさんお金を稼ぐことでもなく、理想の相手と一緒になることでもない。誰かを打ち負かすことでもない。そうなってもまた「足りない、足りない」と慌てふためくだけだ。
つまり解決とは外側をどうにかすることではなく、「自分のことを解決する」ということにある。あなたがいまどこにいて、どんな状況にあろうとも、「自分」こそが人生最大の問題であり、それだけが人生で着手すべき、たったひとつのプロジェクトなのである。
?
2.
そりゃ食べるために働いているのだろう。だが「食べなきゃならない」とばかり言って繰り返してると、いずれ死がやってくる。死んじまうと食べられない。じゃあ何のために必死に食べてきたのか。生きるために食べてきたはずだ。
生きるってなんだ?それはたくさんのことを体験するということだ。別に大層なことをやれってわけじゃない。それをしたから何だってわけでもないし、何かを獲得するわけでもない。
そんなことはどうでもいいのだよ。ただ潮風に包まれて、人々の群れの中を歩いて、笑ったり嬉しかったり感動したり、そういうことに「積極的に触れていくこと」にあるのだ。
?
3.
いまのあなたの人生は、充電したバッテリーを一度も使わずに放電させてるようなものだ。空っぽになったら不安だからとまた充電をはじめる。その電力をまったく活用していない。
生の本題とはバッテリーをフル活用すること、つまり「生きること」をフル稼動させることにある。それはバッテリーが生み出す創造的なパワーにビリビリしびれるということだ。

日常生活のなかで常に生という電力を感じてみるといい。ならばどんな小さなことでも幸せを見つけられるようになるし、世界の探検を(恐ることなく)日々深めていくこともできる。あなたはいくらでもクレイジーになれるのだ。
そしてベッドに逃げ込んで「今日は最高だった」と笑顔で眠りに入りなさい。それが祈りとなる。明日も目覚めとともに神秘が開かれるようになる。生きてるって素晴らしいことなのだと思えるようになるだろう。
?
4.
この世は虚無のうえに浮かんだ夢にすぎない。何かを深くこだわったところで、その否定しか見えてこないようになっている。だから恋愛にしろ暮らしにしろ、「狭くこだわること」が人生に虚しさを感じさせる要因となるのだ。もともと「何もない」のだからね。
許せない人、許せない出来事はそれ自体を解決するものではないということだ。あなた自身が許せる人間にならなければ、その夢は解き放たれない。
もちろん物事にこだわるから「虚無」なのであって、お金も他者も夢であるとわかっていれば、それは虚しいものではない。
その無、つまり絶対的な否定性とは何かといえば、死のことだ。
?
5.
あなたはいずれ肉体の死と直面する。
つまり「生きていく」ということは「死に向かっている」ということになる。「私は生きていくぞ」とは「私は死んでいくぞ」と同義、「生=死」だ。
だから自分が「死する存在であること」を片時も忘れずにいることで、生を鮮烈なものにすることができる。逆にいえば、食べていかなきゃならないということだけに気持ちが向いているというのは未来志向、すなわち死を回避したいという思いが根底にあるわけだが、それは同時に生を遠回りしているということであるのだ。
迂回してもたどり着く先は同じだ。「迂回することが全人生だった」ということほど虚しいものはない。
?
6.
あなたは瞬間ごとに死んでいる。今日死ぬし、明日も死ぬ。1秒後にも死んでるし、1秒前など存在しない。
この世はすべてを吸い尽くしていく巨大な掃除機のようなものだ。その渦にすべてが吸い込まれていく中で「存在」という答えを出せるのは「いま生きていること」にどっぷりと浸かるあなたの姿だけなのだ。
それが人生を解決するということだ。あなたが自分自身を活動の舞台として取り扱うならば、すべての他者や物事は許される。そうして世界を解き放ちなさい。闇のなかで輝く光となること、それがあなたがその生で託された、たったひとつの仕事なのだから。
あなたの存在そのものが、この世界のすべての「理由」なのだよ。




 

(無題)

 投稿者:ヤマト  投稿日:2017年 5月22日(月)07時47分22秒 pc122138.ztv.ne.jp
返信・引用
  瞑想の段階

毎日に疲れているなら
あなたは自己を逃している
無意識に生きているからだ
他者や物事といった
外側の反応に追われ
毎日同じ時間に同じことを考えている
昨日、先週、先月、
いったい何が違うというのだろう?
まるで場面の変わらない紙芝居
同じ絵で静止したまま
人生だけが過ぎていく
それは生きているというよりも
命を浪費しているだけ
あなたは「今日をやり過ごそう」
としているが
いつまでそれをやるのだろう?
「他にやることがないから」
「やりたくない仕事もやらないと」
とまあ口を開けばまたお決まりの言葉だ
あなたが「パターン」から
抜け出すためには
やりたいことを探すことでもないし
胸が熱くなるように仕向けることでもない
自分が無意識であることに気付いて
それを金輪際やめるだけだ
つまり瞑想的に生きるということ
瞑想とは意識を内側に
繋ぎとめておくことだから
どんなことも瞑想にすることができる
コップを持つこと
食べることや歩くこと
誰かとの会話も仕事も瞑想になる
つまり行為がメインではないのだよ
意識をしっかりと掴んでおく
それさえできれば
あなたは神秘の世界に到達できる
疲れることもなく
苦悩することもなく
完全に解放された自由な世界で
あなたは伸び伸びと暮らすようになる
それだけじゃない
物事はどんどん好転し
あなたがかつて望んでいた人生に
気が付けばそうなっているようになる
それは決して
今の環境を変えるということではない
あなたが変わるから世界が変わるのだよ
?
瞑想の段階
瞑想状態は自己に対する
何らかのアプローチを経て到達する
そのアプローチを強引に
「段階」として記してみると
・内省
・自己想起
・自己観照
この3つとなる
多くの人々が瞑想だと思って
やっているのが内省だ
壁を見て壁について考える
呼吸の出入りを見て
呼吸について考える
心は静まるかもしれないが
それはリラクゼーションの域を
超えることはない
対象に囚われているから
自己がない
自己に向ける意識がない
で「これじゃ光明が起こらない」と
また考え出す
考え続ける限り、
マインドに抱かれたままとなる
次に自己想起の段階がある
強烈な自己イメージが起こり
世界が自分を中心に
広がっている感覚が起こる
いわゆる「いまここ」や
「私は在る」という状態
自分の名前を意識して
自分をここに存在させてごらん
また何かに触れるとき
その何かだけでなく
触れている自分にも
同時に意識を向けてごらん
見ること
聞くこと
どんなことも双方向に意識を向ける
すると意識の変容が起こる
体にまとわり付いていた何かが
足元に溶け落ちる感覚が起こる
視界がぐっと明るくなる
両足が大地に接地する感覚が起こる
時間の経過が消えて
永遠の中を泳いでいるような感覚になる
これが目覚めや光明といわれるもの
だが最初のうちは一瞬で終わる
思考が邪魔をするからだ
この「目覚め」の次元は
思考から離れたときに開かれる
つまり未来と過去に意識がいかず
「いま」に自己が存在している様子
しばらくはこの状態を維持できるよう
頑張ってみるといいだろう
1日中自己想起を
続けられるようになる
そして次の段階に自己観照がある
あなたは別の場所から
自己を見ている
あらゆる光景が目の前で流れるだけの
テレビ映像のようになる
すべてのリアリティが消滅して
ふとあなたはこの世の正体に
気付いてしまう
何も実在しない
何も実在しないゆえに
すべてが私となる
石ころも
花も
遠ざかる車も
すべての人や物の背後にある
漠然とした何かを感じる
それが神であるなら
神とはこれを観ている私である
だが私はどこにもいない
生きながら死んでいる状態
スピリチュアルではこれを不死性という
自己想起も全体性に触れているが
自己観照は全体性そのものとなる
流れ出るままに
パラパラと書いてみると、、
自由であるというよりも
連動感、一体性、「それそのもの」、
サマーディ、
幸福感というよりも喜び、
1mmも動けない
距離は失われる
すべてが貼り付いている
充満しているひとつの空間
鐘の余韻のような世界
記憶
昨日も明日も同じ空間にある
すべてが同時に起きる、、
いま出てくるのはこんな感じだね
自己想起が狭く深い、
貫いている感じがあるのに対し
自己観照は無限に広いが奥行きはゼロだ
すべてが私の部分であるようになる
常に完結が過ぎていく
だがこれらはあくまで
私がいまここで書いている表現に過ぎない
大事なのはあなたが
「この文章が見えていること」に
気付いていることなのだよ






 

(無題)

 投稿者:ヤマト  投稿日:2017年 5月 8日(月)22時07分49秒 pc122138.ztv.ne.jp
返信・引用
 




.
 

(無題)

 投稿者:ヤマト  投稿日:2017年 5月 8日(月)22時01分53秒 pc122138.ztv.ne.jp
返信・引用
 




.
 

(無題)

 投稿者:ヤマト  投稿日:2017年 5月 8日(月)17時23分28秒 pc122138.ztv.ne.jp
返信・引用
 







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(無題)

 投稿者:ヤマト  投稿日:2017年 5月 8日(月)13時02分6秒 pc122138.ztv.ne.jp
返信・引用
 



 

掲示板が完成しましたキラキラ

 投稿者:teacup.運営  投稿日:2017年 5月 7日(日)22時21分8秒 pc122138.ztv.ne.jp
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