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  1. 足あと帳(0)(管理人)17/04/12(水)06:21
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Re: 小説も絵画も音楽も。

 投稿者:藍崎万里子  投稿日:2019年 6月16日(日)16時12分41秒 cyadg148175.c-able.ne.jp
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  > No.333[元記事へ]

充実した休日を過ごしてらっしゃいますね(*^◯^*)
私は、今日もおばあちゃんの部屋に缶詰ですが、とりあえず、自分の小説「マイグランマ」を通して読んでみました。これは、太宰治賞に出す予定のものですが、ほぼ出来上がった感があります。このような困難な環境ですが、合間を見つけてポツリポツリと芸術しております。今のところ原稿用紙97枚です。おそらく、最後には100枚を超えると思われます。
毎日、大音響のテレビの前に座っております。音楽はほとんど聴けません。ゴボウラテを飲みながら、時々窓を開けて裏庭を眺める。風が吹いているのを時々感じますが、今は初夏なので、おばあちゃんの部屋が面している北から北風はほぼ吹いてきません。
蚊取り線香もない部屋で、蚊がブンブン飛んでおります。刺されまくって、ボリボリ掻いております。もののあはれ、とは、ほとんど無縁の生活状況です。
でも、大坪さんの小説でも読ませてもらいましょうかね(^_-)-☆   勉強させてくださいね(*^◯^*)!!
お互い、いつまでも芸術しましょうね???
 
 

小説も絵画も音楽も。

 投稿者:大坪命樹  投稿日:2019年 6月16日(日)15時47分19秒 KD119104012064.au-net.ne.jp
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   僕は、芸術を鑑賞するとき、とても幸せな時間を享受する。
 今日は、何もさして面白いこともなく、雨の中一人部屋で過ごしていたが、柴崎友香さんの「待ち遠しい」を読んでいたら、とても幸せな情緒を感じた。がっついて読みたくなるものではけっしてなく、柴崎さんの小説世界の情趣がとても平和にしみじみと感じられるので、逆に勿体なくてなかなか読み進まない。ミステリーやなにかと違って、決して結末知りたさに読み逸るのではなく、ゆったりと浸っていたくなる小説世界である。
 そのあと、部屋のマーティロの絵画などを眺めるに付け、この金色と赤青の原色と単純な描線だけで、とても美しく味わい深く感じられるのは、不思議でもありとても楽しい気持ちである。マーティロ・マヌキアンは、ポップアートの画家だから、クリスチャン・ラッセンなどと同列に見られるが、僕の好みで言えば、ラッセンの100倍美しい。世人に言わせれば、そんなまがい物の絵画を飾って得得としているのは、審美眼が腐っている証拠だとか、罵られそうだが、そんな一般基準はどうでもよろしい。ぼくは、ことによると、モネやゴッホの名画よりも、この「金色の風に吹かれて」「エンジェルハート」が好きなのだ。単純化には、要素の抽出という効果があり、蒸留酒のようなある種の純度の高いなにものかが強調されて表現されるのだ。
 そのあと、いつもは見向きもしないベートーヴェンを掛けてみた。カラヤン指揮のアレクシス・ワイゼンブルグピアノの第三番である。妻も駄曲だと断言していたピアノコンチェルトだったが、こうして聞いてみるとなかなか艶があって美しい。初めてこの曲を聴いたときは、クラウディオ・アラウのピアノで、今一音がうるさく耳に付いた。今聴いたらかなり艶のある美しい調べに聞こえている。
 このような芸術は、鑑賞するだけで楽しい気持ちにさせてくれる。
 芸術は、やはり古来からの「もののあはれ」を疎かにしてはいけない。ベートーヴェンのなかにも、「もののあはれ」があるから美しく感じられるのだ。これは柴崎友香の小説ももちろん持っている美しさであり、おそらくはあのマーティロさえ、ある種の「あはれ」さを持っているからこそ、美しく感じるのだと思うのである。
 つまるところ、日本人の美意識は「もののあはれ」なしには語れないのだと思う。それは、自然賛歌や諸行無常と深く結びついているのである。
 

Re: 文学したいけど

 投稿者:大坪命樹  投稿日:2019年 6月11日(火)22時01分13秒 KD119104002020.au-net.ne.jp
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  > No.331[元記事へ]

 介護の問題は、とても現実的に厳しい問題で、それを身を以て経験している妻は、本当によくやっていると思う。妻が今執筆中の某作品も、老老介護の問題を、妻自身の経験を素に、うまく浮き彫りにした作品だが、本人はあまり満足していないようだ。僕としては、芥川賞受賞の老人介護の問題を扱った、某H・K氏の作品などよりは余程良いように思うのだが、どんなものか。
 妻は、少なくとも自分の才能に溺れていない。私の知人で、その人の作品を読んで正直な感想を送ったら、言って良いことと悪いことがあるんですよ、お世辞くらい言えない人とは、今後一切つきあえません、などと、お世辞を言うのが礼儀正しいとか思っているどこかの阿呆の真似のような言葉を返された。感想は正直にぶつけるほうが礼儀正しい。明らかに喧嘩を売るのは違うが、面白くないものを面白くないと言う方が、形ばかり面白いと言うよりもよほど親切だし礼儀正しい。そういうことを判っていないあまちゃんが、世の中に跋扈している現状に、むしろ驚いてしまった。そんな人の書く小説を面白がる人がいるのだなあと。
 読んでもらったら、褒められるのが当然と思っている莫迦な先生がいるが、そんなひとたちは、犬にでもくれてやればいい。少なくとも妻は、自分の作品に自信が持てず、却ってその出来の悪い子供の方を持って、一生懸命自己主張する。しかし、その姿は決して奢っている訳では無い。自分の子供を守ろうと、自分の個性として一生懸命存在を絶叫するのである。それは、褒められて当然と思っている先生作家たちとは大違いである。
 だから、僕は妻を応援したいし、自分も件の先生作家に堕さないように、慢心を排して常に進歩することを心掛けて、芸術の優越を競わないようにしている。優越感ほど愚かなものは無いからである。
 芸術の真価は、その創作者がどれだけ真剣に作品に撃ち込んだかに掛かっているような気がする。だから、妻が発症する契機になった「アマプレベス」は、いつ読んでも大作だし、僕の作品が今一認められないのは、まだ撃ち込む真剣度が足りないからだとも言えなくもないのだ。
 ともあれ、芸術作品は、人生を生きるほどに、真剣に創るべきである。芸術と人生は、一如でなければならないのだ。
 

文学したいけど

 投稿者:藍崎万里子  投稿日:2019年 6月 9日(日)20時34分8秒 cyadg148175.c-able.ne.jp
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  今日も、おばあちゃんの介護で付きっ切りの1日。パソコンも開けず、せいぜいiPadで小説を読む。おばあちゃんの趣味の週刊文春や、週刊新潮も、時々拝借して読ませてもらう。なかなかいい文学との出会いがあって、刺激をもらっているここ最近である。
夫の新作を読んで、あーこんな完璧な文章は私には到底書けそうにない。と感じ入って、その次に自分の「モーツァルトと皇帝たち」を読み始めた。今日のところ140ページ待っで読んだが、ほとほと嫌になった。文章が意味不明で、しかもしつこく、ゴチャゴチャしていて分かりにくい。これは小説現代長編新人賞(だったっけ)に出したが、一次選考も通らなかった。今となってみたら、まあそれは当たり前だよね。という感想である。
吉田修一さんや、住野よるさんの作品を読み、勉強する。もちろん何よりも、夫の作品を読んで勉強させてもらう。私は、才能がないから、とにかく一生懸命やるしかないのだ。病気もあるけど、できるだけのことはしたい。せめて、一次選考にくらいは、絶対受かる。というレベルくらいには行きたいと思っている。こう言っても、そんなに無理なことを言っているとは思われないのではないかと思う。
今からたくさん小説を読み、小説以外のものも読み、ドラマもできれば観るようにし、映画もなるたけ観るようにし、よく出歩き、観察し、感じ入り、記憶するようにする。今までしてこなかったことを、やろうと思う。
まあ、もっとも、このところ体調を崩してしまっていて、おばあちゃんと一緒に共倒れになるんじゃないか? と思われるくらいであったが、夫がハチミツドリンクなどを送ってくれて、おばあちゃんと一緒に飲んで、元気を出している。おばあちゃんも、元気になった!と喜んでいた。夫には本当に感謝しかない。
このように、なかなかパソコンに向かえないときにこそ、できることがあると思って、いろいろ模索しながら頑張ろうと思う。
もちろん体調第一ですけど。
 

角田源氏「蛍」帖。

 投稿者:大坪命樹  投稿日:2019年 6月 8日(土)07時35分3秒 KD119104013024.au-net.ne.jp
返信・引用
   玉鬘に関して、その美しさを半ば自慢するかのように、光君は兵部卿宮との間を取り持とうとして、宰相の君に口述筆記させて文の返事を書かせる。それを読んだ兵部卿宮は、喜んで玉鬘の住む西の対に来るのだが、そこで光君のもくろんだ演出で、蛍のほの明るい明かりに照らされた美しい姫君を、兵部卿宮は見つけることになる。
 玉鬘は、自分と光君のような奇態な間柄は、昔物語にもなかったことだと嘆き、どうか実夫である内大臣に認知されないかと、ずっと心待ちにしている。内大臣のほうでも、じつは夕顔の君との子供のその後を面倒見られなかったことが、今更ながらに悔やまれてどうにかならぬものかと、常々思っていたところ、夢見をしてそれを占って貰ったら、養子になっているかもしれないと、予言のようなことを言われる。
 光君は、自分の想いを玉鬘に告げて以来、どうもやりにくいようだったが、紫の上はもとより玉鬘だけではなく、秋好中宮(梅壺)にも同じような想いを抱いたりしていて、性懲りのない女好きである。二人の仲の今後がどうなるか、ということを軽く興味をそそってあるのが、いいスパイスになっている。
 面白いのは、平安当時というか紫式部の「文学観」が光君を通して語られているところで、「誇張」であっても「真実性」を持っているのが「物語」であるし、たとえお経などでも「悟り」と「迷い」が「善人」と「悪人」と同様の隔たりで書いてあるのだ、ということを語らせている。『内容に深い浅いの差はあれど、単に作りものと言ってしまっては、物語の真実を無視したことになる』『よいことも悪いことも、この世に生きる人の、見ているだけでは満足できず、聞くだけでもすませられないできごとの、後の世にも伝えたいあれこれを胸にしまっておけず語りおいたのが、物語のはじまりだ』などと当時としては卓越した文学論を展開している。この「真実」性つまりリアリティは、現代にも重要なテーマとして存在していて、純文学の重要な一要素となっている。そういう意味でも、この帖は面白いことが書いてある。
 花散里との仲も少し書いてあって、花散里は床を同じくするのが恐れ多いと思って、わざわざ几帳を隔てて寝るという奥ゆかしい側妻ある。少し寂しい気もするが、セックスだけが夫婦ではないのだと言うことを、花散里は言っているような気がする。プラトニックというほどでは無いかもしれないが、肉体関係ばかりではないということを、平安の世から既に、教え述べているのだった。
 いろいろみどころのある帖である。
 

角田源氏「胡蝶」帖。

 投稿者:大坪命樹  投稿日:2019年 6月 4日(火)18時48分38秒 KD119104019104.au-net.ne.jp
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   夕顔の娘、玉鬘の親代わりになっている光君は、その秋の邸に川を通じさせていて、そこに舟を浮かべて、光君の住む春の邸の春爛漫の景色を、秋の邸の梅壺に見に来させようとする。しかし、梅壺は女房を遣るだけで自分は春の邸には行かなかった。その山吹や桜や藤の美しさが彩り豊かに描かれている前半に、蛍宮とその春の花の宴で近しくなったことが書かれており、そのあとに引き取った後の玉鬘について書かれている。夏の邸の玉鬘は、六条院の中でもとくに女盛りの淑女であるため、多くの殿上人が玉鬘に文を認めたとある。紫の上や明石の君は、美しいとは言え光君の后であるし、明石の女君は幼すぎるし、といったところなのだろう。その玉鬘の世話をするうち、抑えきれなくなって光君はついつい、玉鬘に言い寄ってしまう。その良いより方が、滑稽で笑いをそそる。
 世の男はただの恋心、光君は、これだけ世話をしてきた親心のうえに恋心が加わったものだから、世の男より想いは強いのだ、ときたものだ。どんな親心やねん。著者も、突っ込んでいますけど、笑えるところです。
 そのようであるから、玉鬘には嫌われてしまう。玉鬘は、まだ男女の仲をしらぬ清い体ゆえ、光君のこともことさら汚らわしかったのだろう。
 光君は、言いよっておきながら、世間的には親としての機能を保っていて、蛍の宮や鬢黒右大将や、内大臣の子息の柏木との仲をとりもつようなことを言っているが、蛍の宮も鬢黒も年配で前妻がいるし、あまり清い体では無いため、玉鬘の相手としては有り得ないと思う。また、玉鬘は、内大臣(頭中将)と夕顔の娘なので、柏木とは腹違いの兄弟なのだ。
 光君が勧める相手は、どれも婚姻不適とみえる男達ばかりで、その本音は自分のものにしたいという浅ましい「親心」なのだろう。そのところ、すっかり以前同様の目にあっている紫の上に見抜かれて、光君もぐうのねもでないのが、またおかしげで楽しい。
 ユーモアと情景美とが際立った、面白い帖でした。
 

「献灯使」も頓挫か。

 投稿者:大坪命樹  投稿日:2019年 6月 3日(月)20時29分43秒 KD119104018006.au-net.ne.jp
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   しばらくまえに、「族長の秋」ガルシア・マルケス著の読書を中断してしまったが、今度は「献灯使」多和田葉子著を中断してしまいそうな感じだ。どうも、このリアリズムの抜けたすっとぼけさが、すかしていて少しも僕の腧に嵌まらない。同じリアリズムの無い小説でも、町田康著「ホサナ」などは、とても切迫感があってリアリティーがあった。リアリズムがないけどリアリティーがあるのは、嘘が本当らしく描かれているからだ。しかも、テーマが重くてリアリズムが無くても、眼が離せないのだ。自分らのことが語られているから、少しも眼が離せないのだ。
 そういう切迫感が、「献灯使」には見当たらなかった。半ばまで読んでも、いまだにどうして老人が曾孫の面倒を見る社会なのか、なぜ仮設住宅に住んでいるのか、なぜ東京が住めなくなったのか、なぜ鎖国したのか、なとなど、設定がめちゃくちゃなくせして、順序よく語らないので、初めはその物珍しげな世界が興味深く風情すら感じられるのだが、真ん中当たりで下手な作り話に堕してしまっていて、リアリティーがなくてしらけた漫才を聞いていた方が、いやしくも笑うための場所が設けてあって親切だとすら、言いたくなるような筆致である。この社会の問題は何なのか? それは絵空事で描かれている社会であって、少しも現代日本社会に根差していないのでは無いか? 初めは、原発批判で書いた小説かも知れないが、書く内にどんどんそれから離れていって、ただ流れに任せて書いただけと言っただけの、テーマが薄れたSFチックな純文学といったようなものに、変容して行っているのでは無かろうか?
 どうも最後まで読む自信がなくなってきた。はっきり言って面白くない、つまらない。今度出す、群像文学新人賞の選考委員の一人の執筆になる作だけに、あまり悪いことは言いたくないが、僕は、ここまで読んでみて、その良さが判らない。プロらしさが感じられない。文フリでも売っていそうな小説だ。途中で投げ出したくなるほど、小説世界がそらぞらしい。だから、うそっぽすぎて読むのに堪えない。読むのがしらけてしまって、時間の徒労感を感じさせるのだ。
 僕の芸術を理解するこころは、あまり多くのものを理解できず、絵画でも好きなものは限られているし、音楽でもしかりである。だから、小説もまた、限られている。
 とりあえず、明日は一休みして、「源氏物語」でも読んで、そのあとまた、試しに読み続けてみるつもりだが、最後まで読めるかどうか約束できない。
 こんなこと書くから、また出版社に生意気だとか言われて、選考に残らずに終わってしまうのだろう。
 群像新人賞も、今回はアブストラクト小説をぶつけるので、多分一次落ちだな。なんとか、あこがれの柴崎友香さんの眼に触れてもらいたかったが、それもまた夢のまた夢のようだ。
 まあ、泣き言ばかり言っていてもしかたない。書いたら出すだけだな。果報は寝て待てというのだ。
 

昨日の勉強会。

 投稿者:大坪命樹  投稿日:2019年 6月 3日(月)07時56分33秒 KD119104000064.au-net.ne.jp
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   昨日は、無刀会の勉強会だった。
 今年度から、大岡昇平さん著「現代小説作法」を読み出した。輪読して第二章まで読んだ。
 まずは、書きたいものがあれば、紙とペンがあればよく、「テーマ」というものは、その小説の出来映えに多分に影響するので、自分で意識すると良いというようなことが書いてありました。これは、保坂和志さんの書き方と食い違っています。しかし、その大岡さんですら、意図したものとテーマがズレることを、考慮に入れるように言っております。
 確かに、「反戦」「反差別」「反核」など、テーマ性の強い作品を産み出すには、意識しなければ書けないでしょう。なので、僕はこの「テーマ性の意識」に関しては、賛成派であります。
 ついで、「書き出し」が重要な要素ともありましたが、結局は森鴎外の「阿部一族」の例をとって、書き出しなど実際に作者がその小説を書いたときの季節を反映していても良いくらい、どうでもよくて「自由」であることが、一番であるという結論になっています。いくら技巧的に始まりだけを飾っても、作家としての「態度・姿勢」というものが、「自由」であるとかその他すばらしいものがあるのでなければ、全体としてつまらない小説になってしまって、竜頭蛇尾小説に成りかねないと言うことです。
 小説家は、「書く態度」が大切と言うことでしょうか。
 なかなか面白い二章でした。
 そのあと、実習で「浦島太郎」を小説化するための、「書き出し」をおのおの30分くらいかけてやってみました。四人四様、様々な個性が出ていて面白かったです。

http://mutoukai.ml

 

光陰に弾くる露命。

 投稿者:Pearsword  投稿日:2019年 5月24日(金)20時50分35秒 KD119104006248.au-net.ne.jp
返信・引用
   光陰に乾かん露命漲らし墨を溶かしめ文綴るなり

 今日も、筆は遅々として進まず、疲れた体は米俵を載せたように重かった。
 芥川龍之介は「小説作法」にて、小説は外の文学よりも芸術性が低いなどと嘯いているが、氏が詩作をしたことがあるという事実を僕は聞いたことが無いので、おそらく謙遜を含んだ自戒的弁述なのだろう。詩の方が芸術性が高いと思っているなら、小説ばかり書かずに詩作をするはずだからである。
 向き不向きかな、という気がするが、感情や風景や思想や哲学などを、詳細にかつ繊細に、豊穣に描けるのは、どうしても文字数の多い小説の方である。小説は、時間のスパンをいかようにでも長く取れるので、瞬間を捉えがちな詩とは異なり、とても面白いことを描ける余地がある。確かに、現代詩は難しくて、哲学も深いように思える。しかし、僕は詩に感動を覚えたことがまるで無い。だから、詩よりも小説が好きだ。だから、小説を書く。
 まあ、いろいろな芸術が多様的にあって、とても面白いと思う。
 いかようでも良い、素晴らしき感動を叫ぼうではないか!!
 それが芸術だろう?
 
 

文学と難読性。

 投稿者:大坪命樹  投稿日:2019年 5月13日(月)20時45分5秒 KD119104007052.au-net.ne.jp
返信・引用
   ガルシア・マルケス氏著「族長の秋」を読み始めてしばらくになるが、以前から書いているように、読みにくくて叶わない。段落が無いと言うだけで無く、描写が凝縮して詰まったように、しかも多角的になっているため、初めは物珍しくて面白いが、次第に疲れてくる。日本語的美的センスが通用しない、明らかにコロンビア人の作品だ。悪く言えば、ゴテゴテしていてど派手である。
 そのため、読むのが辛くて痛みすら感じるようになった。何か、癒されたくなった。
 それで、妻の処女作「アマプレベス」を読んだら、とても面白くてかなり癒された。これは、僕が以前、読書恐怖のときに出逢ったJ文学との間のような位置関係だ。読書恐怖の時に、ずいぶんJ文学には救って戴いた。読みながら、小説に癒された。芸術には癒やしの側面が無くてはならないと思うのだ。
 そう考えると、受賞作ばかり追うのではなく、自分に合った背伸びせずにも届く手頃な文学を読むのも良いのではないかと、思うようになった。大衆が、大衆文学を好むのは、程度が低いとか頭が悪いとかではなく、彼らにとって大衆文学が一番、背伸びせずに読める手頃な文学だからに過ぎないのだろう。
 やたら、文士とか格好付ける輩は、仔細ぶって難解な文体で、自分の学の深さを自慢するが如くに、読みにくい小説を書くが、そういうものは、どちらかと言えば不親切である。いくらその小説世界が、高みにある純粋な輝きを持っていたとしても、なにをそんなに難解にもったいを付ける必要があるのか? 白居易を見倣って、平易暢達を心掛けてほしいものだ。
 などと言ってはみるものの、書く側からしてみると、難解にしているつもりはつゆなくて、僕の小説はしばしば仏教用語が難解だと言われるけど、言葉というのは唯一性を持っていて、その言葉でないと言い表せない概念や物事があるのだ。言い換えるとずいぶん芸術性が落ちてしまうということになってしまう。だから、仏教用語はそのまま使わねば、どうも都合が悪い。
 ガルシア・マルケス氏にしても、なにも僕に疲れさせるために、わざと難解な小説を書いているのでは無かろう。コロンビア人の風土と血潮が、そのようにさせるに違いなく、たしかにコロンビア人作家の中でも氏は白眉だろうが、その価値観や土壌を理解するためには、かなりの精神力の消耗を必要とするのは、致し方の無いことなのかもしれない。
 芸術は、鑑賞側の精神の発達度合いによって、かなり評価が変ってくる。これが、芸術が死後にようやく認められたりすることの理由の一つでもあるが、個人の人生の中でも、若いときに理解できなかったものが、歳を取ってからようやく良さが判るようになってくるということもあることの原因でもある。難解な小説は、僕にはまだ難しいのだろう。というか、僕の知能では及ばないのかもしれない。それは致し方のないことだ。僕は、ベートーヴェンが判らないのと同様、「族長の秋」をすらすら読めないのだ。
 しかし、面白さは確かに判る。面白いのは面白いが、読むのが辛い。辛さが募って痛みまで出てきた。もう少し頑張ってみるが、まだ修行が足りなくて、僕には読めない代物なのかもしれない。
 まあ、限界というものもぶち当たってみるべきではある。「族長の秋」が限界では、とてもプロの作家にはなれないとか言われそうだが、日本文学にこれくらい読みにくい小説を、僕はあいにく知らない。ガルシア・マルケス氏を舐めてはいけない。相当の傑物大作家なのだ。少なくとも、そのように感じさせる何ものかが、この小説の文体自体に、滲み出ていると思うのは、ノーベル文学賞受賞作家の作品だからという偏見からだけではないだろう。 
 

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