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  1. 足あと帳(0)(管理人)17/04/12(水)06:21
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文壇や出版社の方々へ。

 投稿者:大坪命樹  投稿日:2019年 8月14日(水)18時57分31秒 KD119104004195.au-net.ne.jp
返信・引用
   なんだか自分が粋がって、文壇なんて、とか、出版社なんて、とか、賞を広告に利用してやれ、とか言ってたら、胸が痛んできた。出版社や文壇の人々だって人の子だ。情けやこころはある。僕のようなものにヘイトスピーチをされ、担当者が耳にしたらこころが傷つくだろう。ホームページにも随分ひどいことを書いてしまった。さいわい手直しできるから、あとで修正しておこうと思う。
 事情はどうあれ、ヘイトスピーチはよくない。
 この場を借りて、ホームページやツイッターで言った、文壇や出版社に対するヘイトスピーチに関して、お詫び申し上げます。
 まあ、僕の小説が認められないから、ぶち切れて悪態ついただけと言えばそれまでなのだが、その悪態に傷つく人々もいらっしゃるかもしれないのだ。やはり、悪言を公共の場で垂れ流すのは、非常によくないことだ。多くの人々が傷ついてしまう。ネットのマナーなのだ。仏教の十善戒にも、「不悪口」があるように、なるべくなら悪態はつくべきでない。しかし、人間は弱いからついつい戒を守れず、悪いことをしてしまう。だから、愚痴をこぼすなら、身内の者にでも、ひそかに「相談」という形でこぼせばいい。ネットでベラベラ悪態をつくべきではないと感じた。
 文壇と出版社の方々に、こころからお詫び申し上げます。
 
 
 

角田源氏「常夏」帖。

 投稿者:大坪命樹  投稿日:2019年 8月13日(火)19時19分1秒 KD119104000240.au-net.ne.jp
返信・引用
   平安の京も、温暖化の進む現代のごとく猛暑だったのかと思わせるような、六条の夏の街での情景描写は、そらが青く目に映るようで、「暑苦しい」と書かれている蝉の声すら、風情がある。その夏の西の対に夕暮れ時に行き、玉鬘と会う光君だが、撫子の花が可憐に描かれ、しずかな夕闇を思い起こさせる。そこに入り込む和琴の音が、とても美しく描き出され、妙なる美音が小説世界に響く。
 そんな情景から、光君に実の父の内大臣が和琴の名手だと聞いて郷愁を募らせる玉鬘が書いてあり、光君は玉鬘と柏木の仲について、夕霧と雲居雁の仲に比べて思ってしまい、内大臣に会わすことが癪にも思え、立派な姫君に育ててから会わそうと思って、みずからの下心をただすようなつきあいをしたところ、ようやく玉鬘は少し光君に気を許すようになったのに、それを見てまた発情する光君という、浅ましい男心が描かれている。
 ところで、「常夏」は、その玉鬘に光君が詠った歌に出ている言葉である。
 ――撫子のとこなつかしき色を見ばもとの垣根を人や尋ねむ
 この「とこなつ」を表題通りの意味に取れば、「常夏」かしきとなって、造語になるのだが、玉鬘の「撫子のとこなつ」たる美しさ、つまり恒久的華美さを詠った歌としてとれて、面白い(これはあくまで私的解釈で、本書の解釈と異なる)。
 さて、その内大臣だが、前帖で出ていたように、玉鬘を探したために別の姫を掴んでしまう。その、柏木の連れてきた近江の君について、自分の娘の弘徽殿女御に仕えさせようと考えるが、会いに行ってみると可愛い田舎娘で、品がない。それでも仕えるように言い、気取った近江の君は、行を斜めにして格好つけた字面で、「風流な引歌」を多用して、ちぐはぐな歌を書き、女御に文する。それを受けとり読んだ女御は、返信に困って女房に代筆させた歌が、笑えた。つくづく紫式部は、ユーモリズムの判る才女だと思う。
 ――常陸なる駿河の海の須磨の浦に波立ち出でよ筥崎の松
 これには、古歌を知らない僕も、ついつい大笑いしてしまった。それなのに、近江の君は、「松」から待って下さるのよ、と好意的に取り、頬紅を塗りたくり、女御の元へ仕える準備をするのだ。
 ここには、式部の階級社会を越えた人類愛が感じられ、さすがお優しい方なのだな、と感じずにおれなかった。
 

Re: 今日の勉強会。

 投稿者:藍崎万里子  投稿日:2019年 7月20日(土)18時21分2秒 cyadg148175.c-able.ne.jp
返信・引用
  > No.336[元記事へ]

今日の勉強会も、いつもと同じように楽しかったです!!
みなさん、お世話になりましたm(._.)m いつも ありがとうございます!!

ルソーのことが大変批判的に書いてありましたけど、私はとてもあの文章の書き方は好きでした。大坪さんは、本人も嘘だと思って書いている。と言われてましたけど、彼は自分のことを本当にそうだと信じて書いたからこそ、その真実性に対して、多くの人々が習おうと思えたのではないか。と。私はルソーの「告白」の、ほんの一部分だけでしたけれども、感動しました。あの時代はそういう時代だった。そういうものを信じていた時代だったのだと思います。革命、というものは、ある程度、どころか、かなりの陶酔が無くては、なし得ないことですから。今となっては、革命など、古い概念になってしまって、みんな冷めた目で世の中を観ていますけど。
実習も、楽しかったです。みなさん、自分語りにオリジナルの雰囲気を纏わせてらっしゃったし、感じが良かったです。私はあまりに自虐ネタ過ぎましたかね(・・;)   重いと言われれば重かったですね。読み手を暗くさせてはいけませんね(^^;;
実を言うと、私は、一人称ではなく、三人称で、実習がしたかったです。三人称の方が慣れてませんから。でも、面白かったです(*^◯^*)
また来月も楽しみです!!  よろしくお願いします!!
>
>
 

今日の勉強会。

 投稿者:大坪命樹  投稿日:2019年 7月20日(土)17時03分47秒 KD119104015046.au-net.ne.jp
返信・引用
   大岡昇平著「現代小説作法」第3~5章輪読。
 ルソーの「告白」が日本文学のみならず数多くの近代文学に多大な影響を与えていたとは初めて知った。文学史がざっくり語られていて面白い。初めは、劇の脚本から始まった。そのため、バルザックは場面の舞台に拘った。しかし、それから小説は時代を経て変遷し、舞台を降りて語り手が語るものに成っていく。しかし、それは当初独白であった。
 ルソーの「告白」は、あまりリアリティがないとして、後世批判されるようだが、リアリティすら相対化している現代文学においては、温故知新とばかりに、真似てみるのも手であろう。ということで、ポオやデフォーが真似ているという、書き出しの部分の主人公の相対的叙述を、実習で真似てみました。
 四人四様、面白いものが出来上がりましたが、今回は時間が押していたので、書く時間が15分しかとれず、みなほぼ、自伝的なものになってしまいました。しかし、自伝的なもののすごさは、現実の不整合さや理不尽さを語れるところで、意味の無いカオスに著者の眼が形を与えるというような、抽出作業が行われる点において、おおいに創作の勉強になったと思われます。
 まあ、リアリティとは結局「らしさ」でしかないな、と僕などは思います。現実など摑み所がなく、それをいくら描写しようと苦心したところで、手のひらに掬った海水の如く、すぐにすり抜けて行ってしまう。そんなものは摑みようがないし、摑むのも芸術の一端なのかもしれないが、写実的なものは僕はあまり面白く感じない。もっと面白いことをする方が、芸術的だろう。
 今日の討論の中では、「自分の面白いと思って書くものと、読者が面白いと思うものは一致しない」という論が出ていて、本当にそのとおりと思うのだが、だからといって売れるために読者目線の読者に面白いものを書くのが、芸術を創造する者の心構えとして正しいのかどうか、ここで一線が引かれるだろうオルタネティブが示された。それは、僕の中では整理が付いていて、岡本太郎さんの勉強会がとても生きてきている。芸術家は菩薩様ではない。芸術は奉仕でもない。だいたい、大衆を世俗的に楽しませることを奉仕とは呼ばない。そういう意味で、芸術はやはり大衆に媚びるべきでないし、自己を高め自己を楽しませるものでなければ、人間の所産ではない。
 僕は、同人メンバーに登山の喩えを言った。登山は、登る度に苦しいと思う。それでも山に登りたくなる。なぜかと考えたときに、僕が出した答えは、登山には登頂の喜びとそのあとの束の間の安らぎがある、その至福の一時のために、登山はあるのだ、というものである。あるいは、これは暴風雪の多いヒマラヤなどには当て嵌まらない考え方かも知れないが、僕の登山観はその程度のものでしかないのだ。自分の考え方で考えなければ、なにも行うことは出来ないだろう。だから、僕は、登山をするような気持ちを参考に、創作をすることにするのだ。
 まあ、創作は大体において楽しいものなので、登山に喩えれば、高山トレッキングみたいなものなのですが……。そんな根性だから、なにも受賞できないのだ!! などと罵られそうですが……。
 

疲れ気味。

 投稿者:大坪命樹  投稿日:2019年 6月23日(日)16時51分50秒 KD119104016080.au-net.ne.jp
返信・引用
   今日も少し群像新人賞応募用の小説を書いて、ようよう72枚になったが、書いていても隣の女住人の嘲り声が聞こえてきて、思うように書けない。言葉を書き出そうとすると、幻聴で別の言葉を言われてかき消されてしまったりして、ボロボロである。しかし、他人の声と思うから腹が立つのであって、自分の無意識の声と思えばそれほど腹も立たない。幻聴もひっくるめて、僕の脳なのだ。
 もとより、人間の理性だとか自我の出来ることと言ったら限られすぎている。人間は誰しも非理性的に生きている。野性的な多くの面を見ぬ振りして、理性的自我が自惚れている。しかし、人間は情動的だし本能に突き動かされる野生動物である。こういう考え方は、エリートほど忌避しがちのように思える。
 人間がすべて理性的ならば、もっと犯罪は減り平和な社会が形成できる。しかし、政治家からして汚職だの収賄だの、やりたい放題なのは、欲望に突き動かされる非理性的な面が出ているからである。倫理とは大体において理性的なのだ。それが実行出来ないのが「政治」であったりするのは、権力というものの恐ろしさであろうかと思われる。
 人間は、疲れてくると、欲が少なくなる。僕はもともと、疲れやすいタイプなのか、中二のころから「もう死にたい」などと言って無気力に苛まれてきた人間だ。しかし、その割に長生きしているのは、人間の皮肉な側面を表していて面白い。辛い人生の人間が長生きして、欲望の多い人間が早死にする、そんな単純な公式はないかもしれないが、えてしてそんな気がするのは、僕だけだろうか。
 とはいえ、そういう無気力がちな僕も、普通に結婚して平和を求め、それでもなお小説を書いて人生を楽しもうとする。人生は、楽しむためにあるとか、俗に言うが、僕は必ずしもそうは思っていない。楽しむだけなんてくだらない。喜怒哀楽すべてあってこその人生ではないか? 参同戒にも曰く「明暗おのおの相対して、比するに前後の歩みのごとし」。よろこびもくるしみも、相対的なものではないだろうか? 天国は楽しみだけの地獄なのではないだろうか? 逆に言えば、地獄は苦しみだけの天国とも言えまいか? 苦しみも恩恵であると思えないうちは、まだまだ人生が判っていないと言いたい。そう思って、いま疲れたり幻聴があったりの「苦しみ」も、仏様からの恩恵としてしっかり受け取れるよう、静かにこころを据えたいと思う。
 

Re: 小説も絵画も音楽も。

 投稿者:藍崎万里子  投稿日:2019年 6月16日(日)16時12分41秒 cyadg148175.c-able.ne.jp
返信・引用
  > No.333[元記事へ]

充実した休日を過ごしてらっしゃいますね(*^◯^*)
私は、今日もおばあちゃんの部屋に缶詰ですが、とりあえず、自分の小説「マイグランマ」を通して読んでみました。これは、太宰治賞に出す予定のものですが、ほぼ出来上がった感があります。このような困難な環境ですが、合間を見つけてポツリポツリと芸術しております。今のところ原稿用紙97枚です。おそらく、最後には100枚を超えると思われます。
毎日、大音響のテレビの前に座っております。音楽はほとんど聴けません。ゴボウラテを飲みながら、時々窓を開けて裏庭を眺める。風が吹いているのを時々感じますが、今は初夏なので、おばあちゃんの部屋が面している北から北風はほぼ吹いてきません。
蚊取り線香もない部屋で、蚊がブンブン飛んでおります。刺されまくって、ボリボリ掻いております。もののあはれ、とは、ほとんど無縁の生活状況です。
でも、大坪さんの小説でも読ませてもらいましょうかね(^_-)-☆   勉強させてくださいね(*^◯^*)!!
お互い、いつまでも芸術しましょうね???
 

小説も絵画も音楽も。

 投稿者:大坪命樹  投稿日:2019年 6月16日(日)15時47分19秒 KD119104012064.au-net.ne.jp
返信・引用
   僕は、芸術を鑑賞するとき、とても幸せな時間を享受する。
 今日は、何もさして面白いこともなく、雨の中一人部屋で過ごしていたが、柴崎友香さんの「待ち遠しい」を読んでいたら、とても幸せな情緒を感じた。がっついて読みたくなるものではけっしてなく、柴崎さんの小説世界の情趣がとても平和にしみじみと感じられるので、逆に勿体なくてなかなか読み進まない。ミステリーやなにかと違って、決して結末知りたさに読み逸るのではなく、ゆったりと浸っていたくなる小説世界である。
 そのあと、部屋のマーティロの絵画などを眺めるに付け、この金色と赤青の原色と単純な描線だけで、とても美しく味わい深く感じられるのは、不思議でもありとても楽しい気持ちである。マーティロ・マヌキアンは、ポップアートの画家だから、クリスチャン・ラッセンなどと同列に見られるが、僕の好みで言えば、ラッセンの100倍美しい。世人に言わせれば、そんなまがい物の絵画を飾って得得としているのは、審美眼が腐っている証拠だとか、罵られそうだが、そんな一般基準はどうでもよろしい。ぼくは、ことによると、モネやゴッホの名画よりも、この「金色の風に吹かれて」「エンジェルハート」が好きなのだ。単純化には、要素の抽出という効果があり、蒸留酒のようなある種の純度の高いなにものかが強調されて表現されるのだ。
 そのあと、いつもは見向きもしないベートーヴェンを掛けてみた。カラヤン指揮のアレクシス・ワイゼンブルグピアノの第三番である。妻も駄曲だと断言していたピアノコンチェルトだったが、こうして聞いてみるとなかなか艶があって美しい。初めてこの曲を聴いたときは、クラウディオ・アラウのピアノで、今一音がうるさく耳に付いた。今聴いたらかなり艶のある美しい調べに聞こえている。
 このような芸術は、鑑賞するだけで楽しい気持ちにさせてくれる。
 芸術は、やはり古来からの「もののあはれ」を疎かにしてはいけない。ベートーヴェンのなかにも、「もののあはれ」があるから美しく感じられるのだ。これは柴崎友香の小説ももちろん持っている美しさであり、おそらくはあのマーティロさえ、ある種の「あはれ」さを持っているからこそ、美しく感じるのだと思うのである。
 つまるところ、日本人の美意識は「もののあはれ」なしには語れないのだと思う。それは、自然賛歌や諸行無常と深く結びついているのである。
 

Re: 文学したいけど

 投稿者:大坪命樹  投稿日:2019年 6月11日(火)22時01分13秒 KD119104002020.au-net.ne.jp
返信・引用
  > No.331[元記事へ]

 介護の問題は、とても現実的に厳しい問題で、それを身を以て経験している妻は、本当によくやっていると思う。妻が今執筆中の某作品も、老老介護の問題を、妻自身の経験を素に、うまく浮き彫りにした作品だが、本人はあまり満足していないようだ。僕としては、芥川賞受賞の老人介護の問題を扱った、某H・K氏の作品などよりは余程良いように思うのだが、どんなものか。
 妻は、少なくとも自分の才能に溺れていない。私の知人で、その人の作品を読んで正直な感想を送ったら、言って良いことと悪いことがあるんですよ、お世辞くらい言えない人とは、今後一切つきあえません、などと、お世辞を言うのが礼儀正しいとか思っているどこかの阿呆の真似のような言葉を返された。感想は正直にぶつけるほうが礼儀正しい。明らかに喧嘩を売るのは違うが、面白くないものを面白くないと言う方が、形ばかり面白いと言うよりもよほど親切だし礼儀正しい。そういうことを判っていないあまちゃんが、世の中に跋扈している現状に、むしろ驚いてしまった。そんな人の書く小説を面白がる人がいるのだなあと。
 読んでもらったら、褒められるのが当然と思っている莫迦な先生がいるが、そんなひとたちは、犬にでもくれてやればいい。少なくとも妻は、自分の作品に自信が持てず、却ってその出来の悪い子供の方を持って、一生懸命自己主張する。しかし、その姿は決して奢っている訳では無い。自分の子供を守ろうと、自分の個性として一生懸命存在を絶叫するのである。それは、褒められて当然と思っている先生作家たちとは大違いである。
 だから、僕は妻を応援したいし、自分も件の先生作家に堕さないように、慢心を排して常に進歩することを心掛けて、芸術の優越を競わないようにしている。優越感ほど愚かなものは無いからである。
 芸術の真価は、その創作者がどれだけ真剣に作品に撃ち込んだかに掛かっているような気がする。だから、妻が発症する契機になった「アマプレベス」は、いつ読んでも大作だし、僕の作品が今一認められないのは、まだ撃ち込む真剣度が足りないからだとも言えなくもないのだ。
 ともあれ、芸術作品は、人生を生きるほどに、真剣に創るべきである。芸術と人生は、一如でなければならないのだ。
 

文学したいけど

 投稿者:藍崎万里子  投稿日:2019年 6月 9日(日)20時34分8秒 cyadg148175.c-able.ne.jp
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  今日も、おばあちゃんの介護で付きっ切りの1日。パソコンも開けず、せいぜいiPadで小説を読む。おばあちゃんの趣味の週刊文春や、週刊新潮も、時々拝借して読ませてもらう。なかなかいい文学との出会いがあって、刺激をもらっているここ最近である。
夫の新作を読んで、あーこんな完璧な文章は私には到底書けそうにない。と感じ入って、その次に自分の「モーツァルトと皇帝たち」を読み始めた。今日のところ140ページ待っで読んだが、ほとほと嫌になった。文章が意味不明で、しかもしつこく、ゴチャゴチャしていて分かりにくい。これは小説現代長編新人賞(だったっけ)に出したが、一次選考も通らなかった。今となってみたら、まあそれは当たり前だよね。という感想である。
吉田修一さんや、住野よるさんの作品を読み、勉強する。もちろん何よりも、夫の作品を読んで勉強させてもらう。私は、才能がないから、とにかく一生懸命やるしかないのだ。病気もあるけど、できるだけのことはしたい。せめて、一次選考にくらいは、絶対受かる。というレベルくらいには行きたいと思っている。こう言っても、そんなに無理なことを言っているとは思われないのではないかと思う。
今からたくさん小説を読み、小説以外のものも読み、ドラマもできれば観るようにし、映画もなるたけ観るようにし、よく出歩き、観察し、感じ入り、記憶するようにする。今までしてこなかったことを、やろうと思う。
まあ、もっとも、このところ体調を崩してしまっていて、おばあちゃんと一緒に共倒れになるんじゃないか? と思われるくらいであったが、夫がハチミツドリンクなどを送ってくれて、おばあちゃんと一緒に飲んで、元気を出している。おばあちゃんも、元気になった!と喜んでいた。夫には本当に感謝しかない。
このように、なかなかパソコンに向かえないときにこそ、できることがあると思って、いろいろ模索しながら頑張ろうと思う。
もちろん体調第一ですけど。
 

角田源氏「蛍」帖。

 投稿者:大坪命樹  投稿日:2019年 6月 8日(土)07時35分3秒 KD119104013024.au-net.ne.jp
返信・引用
   玉鬘に関して、その美しさを半ば自慢するかのように、光君は兵部卿宮との間を取り持とうとして、宰相の君に口述筆記させて文の返事を書かせる。それを読んだ兵部卿宮は、喜んで玉鬘の住む西の対に来るのだが、そこで光君のもくろんだ演出で、蛍のほの明るい明かりに照らされた美しい姫君を、兵部卿宮は見つけることになる。
 玉鬘は、自分と光君のような奇態な間柄は、昔物語にもなかったことだと嘆き、どうか実夫である内大臣に認知されないかと、ずっと心待ちにしている。内大臣のほうでも、じつは夕顔の君との子供のその後を面倒見られなかったことが、今更ながらに悔やまれてどうにかならぬものかと、常々思っていたところ、夢見をしてそれを占って貰ったら、養子になっているかもしれないと、予言のようなことを言われる。
 光君は、自分の想いを玉鬘に告げて以来、どうもやりにくいようだったが、紫の上はもとより玉鬘だけではなく、秋好中宮(梅壺)にも同じような想いを抱いたりしていて、性懲りのない女好きである。二人の仲の今後がどうなるか、ということを軽く興味をそそってあるのが、いいスパイスになっている。
 面白いのは、平安当時というか紫式部の「文学観」が光君を通して語られているところで、「誇張」であっても「真実性」を持っているのが「物語」であるし、たとえお経などでも「悟り」と「迷い」が「善人」と「悪人」と同様の隔たりで書いてあるのだ、ということを語らせている。『内容に深い浅いの差はあれど、単に作りものと言ってしまっては、物語の真実を無視したことになる』『よいことも悪いことも、この世に生きる人の、見ているだけでは満足できず、聞くだけでもすませられないできごとの、後の世にも伝えたいあれこれを胸にしまっておけず語りおいたのが、物語のはじまりだ』などと当時としては卓越した文学論を展開している。この「真実」性つまりリアリティは、現代にも重要なテーマとして存在していて、純文学の重要な一要素となっている。そういう意味でも、この帖は面白いことが書いてある。
 花散里との仲も少し書いてあって、花散里は床を同じくするのが恐れ多いと思って、わざわざ几帳を隔てて寝るという奥ゆかしい側妻ある。少し寂しい気もするが、セックスだけが夫婦ではないのだと言うことを、花散里は言っているような気がする。プラトニックというほどでは無いかもしれないが、肉体関係ばかりではないということを、平安の世から既に、教え述べているのだった。
 いろいろみどころのある帖である。
 

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