teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]

 投稿者
  題名
  内容 入力補助画像・ファイル<IMG>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ] [ 検索 ]

スレッド一覧

  1. 足あと帳(0)(管理人)17/04/12(水)06:21
スレッド一覧(全1)  他のスレッドを探す 

*掲示板をお持ちでない方へ、まずは掲示板を作成しましょう。無料掲示板作成


Re: 宗教について

 投稿者:藍崎万里子  投稿日:2019年 5月 9日(木)18時23分57秒 cyadg148175.c-able.ne.jp
返信・引用
  > No.323[元記事へ]

そうですよね。それが、普通の、正常な、考えです。
  しかし、私の幻覚の内容は最悪で、まるで悪魔そのものみたいなイエス・キリストがいて、私に、「殺せ」とか「殺す」とか言い続けるのです。
クリスチャンの友達に聞いたら「それは偽キリストだ」と言っていましたが、私にとっては羊を追う犬みたいな役割を担ってる、やっぱり神の反対側で神のために働いてる人。というイメージなのです。
ツィートして「現実に生きたい」とか書きましたが、現実が決して綺麗なわけではありません。しかし、私の幻覚の世界は、現実よりも最悪なのです。救いのない私の世界で、ふと、ひょんな時、というか、本当に困り果てた時に、キリストの救いが降りてくる。ということです。
私は、普通の人間関係における感覚で、こんなに恩を受けていながら、何もお返しをしない。ということが、ひどく恩知らず。のように感じられて、自分が許せなくて、このような、自分が罰せられるばかりの幻覚に見舞われているのかもしれません。幻覚とは何なのか。は分かりませんが、私が関与しているとしたら、私は自分をどうしても罰したい。ということかもしれません。
謎は解けませんが、私は、結婚もしたことですし、幸せになるという目標を持ちたいと思います。
一生懸命頑張ります!!
 
 

Re: 宗教について

 投稿者:Pearsword  投稿日:2019年 5月 9日(木)17時18分23秒 KD119104015125.au-net.ne.jp
返信・引用
  > No.322[元記事へ]

 藍崎さん、キリストは仏教徒から見ても、尊いお方ですよ。

>  クリスチャンではないが、イエス・キリストに救われる、ということが、果たして許されることなのか、甚だ疑問なのだ。

 キリストは、もう亡くなった聖人です。その教えに救われるのは、決しておかしなことではありません。しかし、キリストは、おそらく外の宗教の人でも、間違った生き方をしていなければ、許したのではないでしょうか? 洗礼を受けさせることが、本来のキリストの教えではないと思います。

>  私は、若い頃、教会に通ったこともあるが、結局、洗礼を受けることは拒否した。そのせいで、自分の中で、神に逆らった、という妄想が起こり、発病に至った。という妄想も、未だに持っている。

 死人に口なしとは言いますが、たとえあったとしても、キリストは自らの教えに救われた人を喜んだとしても、その人がキリスト教に入信しないことを許さないはずはありません。キリストは慈悲深い方ですし、なによりも聖人です。聖人とは、とても慈悲深いものです。それは、悟りを得ているからです。聖人とは悟りを得た人のことを言い、人類の歴史長しといえど、いままで三人しか出現していないのです。それくらい、宇宙を悟ることは難しいけれど、その悟り人は、みな慈悲深くて憐れみ深く正しい人々です。そんな人が、困った状態の弱者を虐げるでしょうか?
 藍崎さんは、聖人を誤解しています。聖人は、とても優しいのです。優しくて強すぎるから、宗教となって教えが後代まで残った。そういう尊い方々です。聖人は、寧ろ、藍崎さんが発病したのを見たら、憐れみを垂れて、救おうとします。神というのも、同様で、逆らったからといって虐げるようなことはしません。それは悪霊のすることです。
 もうすこし、宗教に関して、のどかでゆたかな感覚を持つと良いと思います。本来の宗教とは、人の心を豊かにおおらかにするものなのです。
 
 

宗教について

 投稿者:藍崎万里子  投稿日:2019年 5月 8日(水)21時03分40秒 cyadg148175.c-able.ne.jp
返信・引用
   私は、クリスチャンではないが、本当に困ったときに、何度も、イエス・キリストに救われている。
 いちいち、救われた内容を覚えていないけれど、一度目は、母に悪魔が取り憑いている、と、新興宗教のイカサマ女性教祖に吹き込まれた時。
 私は、母に対して、非常に懐疑心をもよおして、心を閉ざさざるを得ない状態にまで、追い込まれた。
 その時、聖書の一幕を思い出した。そういえば、イエス・キリストも、悪魔呼ばわりされていたのだった。
 そのことを思い出した瞬間、母との間の壁が、一気に取り払われ、私と母は、元通り、仲良し親子に戻ることができたのだった。
 今回、また、イエス・キリストに救われた。
 私は、実は、ずっと、メールを待ちすえている人がいて、その人がなかなかメールをくれないので、イライラしていた。
 そしたら、その人も、相当気に病んでいる。という、啓示が、頭の上に降りてきた。
 そのとき、思い出したことは、マザー・テレサに対して、現フランシスコ教皇が、祈りを捧げた感動的な言葉を、ツィッターで、リツィート&いいねしたことだった。
 その、ご褒美、というような、感覚を覚えたのだった。
 しかし、私は、夫は曹洞宗徒だし、宗教に対して、こうという態度を決めて人生を送ることが嫌な人間だ。
 クリスチャンではないが、イエス・キリストに救われる、ということが、果たして許されることなのか、甚だ疑問なのだ。
 私は、若い頃、教会に通ったこともあるが、結局、洗礼を受けることは拒否した。そのせいで、自分の中で、神に逆らった、という妄想が起こり、発病に至った。という妄想も、未だに持っている。
 これは、嬉しいような、悲しいような、悲しいような、悲しいような、話だ。
 いろんな人に、相談してみようとは思うが、私はこのさき、どうすればいいのだろうか。
 実に、困っているのであった。
 

「族長の秋」鼓直訳。

 投稿者:大坪命樹  投稿日:2019年 5月 8日(水)19時08分34秒 KD119104014167.au-net.ne.jp
返信・引用
   「族長の秋」は、ノーベル文学賞作家、ガルシア・マルケス氏の著による。ガルシア・マルケス氏は、生年の謎があるとwikipediaにはあり、兄弟によると1927年生まれだが、本人は1928年生まれと言っていたらしい。wikipediaの生年を取ると、数霊学での生命数は1だが、本人説を採ると11になる。ガルシア・マルケス氏がカバラを嗜んだかどうかは判らないが、11のほうが天才の出生数でありがちだ。こういうのは、妻が詳しいことだが、いずれ占いの類いである。
 ところで、ブログなどで「百年の孤独」は、改行があるのに、「族長の秋」は改行がない、というのを翻訳者の違いの所為にしていたが、確かめてみたら両方とも「鼓直訳」だった。しかも、wikipediaをみると、「百年の孤独」の次に描かれた作品が「族長の秋」である。この文体の違いは何を示しているのだろうか? 鼓さんににも訊いてみたいものだが、同じ翻訳者と言うことは、おそらく原文が異なるのだろう。「百年の孤独」では、台詞も「」で括ってあったのに、「族長の秋」は「」すらない。台詞もすべて、地の文に叩き付けるように書いてある。しかも一節まるっきり改行無し。読みにくいといったら始末に負えない。
 僕は、長時間の読書に耐えるわけでもなく速読も不可能な人間なので、普通の本は、切れ目の良いところまで読んで辞める。せいぜい一時間続けて読めばいいところだ。しかし、その読み方では「族長の秋」は読めない。僕は読むのがただでさえ遅いのだ。あまつさえ、ガルシア・マルケスの文体は、表現の彩りが豊かで一文が長いので、理解するのに間が掛かる。そうそう速く読めるしろものではない。少なくとも、愚鈍な僕にはそのような文章だ。だから、自然、力尽きたところで中途半端な語りの途中になるのに、辞めざるを得なくなる。これは非常に苦痛だ。区切り良いところまで読みたいのに読めない。辛い。
 まあ、どこでも読書出来る人などはあまり気に掛からないのかもしれない。休憩時間に読書すると、時間になったらそこで辞めたり、電車に乗りながら読書して、駅に着いたらそこでやめる。それが普通の人はそれでもいいかもしれない。
 しかし、僕は区切りの良いところまで読まないと、どこまで読んだかわからなくなってしまう。二度重ね読みしながら不効率な読書を楽しむ羽目になる。それもまたいいのだが、区切りが来るとほっとするのが、読書しているときある程度緊張している僕なので、緊張の解き方が今一上手く出来なくなる。
 登山などでも、何合目までという立て看があると、そこまで頑張れるが、頂上もみえず高度計もなく、ただ坂道を登って行けと言われたら、休む頻度が多くなってしまうといった感じのことが、「族長の秋」では起っている。
 まあ、息継ぎのスパンを長くすれば良いと言う人もいるかもしれないが、普通読書する纏まった時間は、日常生活の中にそうそう取れない。一時間割けたら上等だ。慌てて読むと誤読しかねない難読なマルケス氏の文章だけに、なおさら「族長の秋」は読みにくい。これは、たぶんマルケス氏自身が、そのように企んだことなのだろうが、文章の塊をそのまま投げつけて、読者の生活のリズムや社会的要請との間のジレンマを作りだし、芸術と生活の対決をさせる、とかいう挑戦的文章なのかもしれない。
 しかし、それだったら、節に分けずに一小説一段落で書けば良かったものを、そこはそこまで求道的になれなかったマルケス氏の優しさなのか、なんなのか。
 いずれ、面白いけど苦しいという、こまった小説である。
 

「スカシカシパン」(鏡の会編)より。

 投稿者:大坪命樹  投稿日:2019年 4月27日(土)18時21分6秒 KD119104016111.au-net.ne.jp
返信・引用
   黒瀬さんは、はじめ文フリ金沢でお会いしたときには、お寺の御住職だと言うことで、拙著「菩提人」に御興味を抱いて戴き、御購入までして戴いた。そのときは、歌人だとは全く知らず、何かの噂かで黒瀬さんが歌壇で御活躍の方だと知るにつけ、短歌など殆んど興味のなかった僕が、海市歌会に出席することになった。もっとも、巷で噂の角田光代訳「源氏物語」の影響も多分にはあるのだが。
 ともあれ、海市歌会にはなるべく出席するようにしていて、自分の文学の幅を拡げるために、勉強させて戴いている。
 第五回文学フリマ金沢でも、金沢大学主催の句会に参加し、初めての俳句を詠んで、他の人々の巧みな句と見比べてとても勉強になった。
 そんな黒瀬さんの短歌が、この書にも収載されている。

 アルペジオ、君さへ人を死に遣ると知るとき胸を垂るる月光

 「月光」はベートーベンのピアノソナタだろう。第一楽章の始まりに、美しいアルペジオが使用してある。君とは妻のことか。多分、人を死に遣るというのは、間接的に何らかの事情で、そのような理屈に嵌ってしまうという、人類総殺生罪人であることに対する悲しみのことを書いてあるのではなかろうか。「知るとき」に「月光」が「胸に垂」れた。それは、夜半に窓から射し込んで、垂れかかったのかもしれないし、胸の奥こころのなかに、「月光ソナタ」が垂れるように流れていたのかもしれない。この「月光ソナタ」は、その死に追いやられた人を思い出させる思い出の曲なのだろう。
 人類がみな人を殺しているというテーマは、どういうことなのだろうか? 人は殺生を犯さないと生きていけないというのは、食物連鎖的には誰しもが判る道理である。しかし、人を殺すのはどのような道理なのか? 日本は豊かな国だが、隣国では碌に飯も食えない民もいる。そういう反北朝鮮的なことを述べたり考えたりすることが、北朝鮮の民を殺すことに繋がるという意味だろうか。
 月光ソナタの音楽性を利用した短歌であって、現在、村上春樹氏の「ノルウェーの森」の命名について、あれこれ考えていた時節だっただけに、よけい興味深かった。
 
 

「スカシカシパン」(鏡の会編)より。

 投稿者:大坪命樹  投稿日:2019年 4月26日(金)18時06分40秒 KD119104017243.au-net.ne.jp
返信・引用
   「背を向けて指す」文月郁葉。
 文月さんには、拙著「好き病み」の解説をお願いしているところだが、拙著がくだらなく書籍化してあるのが烏滸がましいものなので、なかなかお困りの様子である。しかし、お引き受け戴いたのはとても嬉しかったので、首を長くして解説の完成を待つこととしよう。

 向き合えば春のしじまとなる君のクリームソーダにアイス泡立つ

 向き合っているのは喫茶店だろうか、相手はおそらく恋人。しかし、向き合うと素直になれないのか、恋愛の始まりの季節たる春の静寂が訪れてしまう君。その君の飲むクリームソーダのアイスは、愛することに疑念を抱いているかの如く泡立っている。

 隣りあふ孤独のやうに背を向けて北と南を指す羅針盤

 君とは、文月さんの住んでいた金沢から、南北に別れすむようになるのか。羅針盤の指す方向はそれぞれ真逆だ。しかし、羅針盤の針は一つで、両極端にN極とS極がある。それは一心同体だ。S極とN極は、お互いがなければ存在し得ない、一種相互依存的な隣り合う孤独を持ち合わせた、恋人同士だ。この一体でありながら両極端である恋人というのは、男女の普遍的テーマであり得るのかは、少し考える余地を持たねばならないだろう。
 しかし、森進一の「冬のリヴィエラ」の「人生って奴は思い通りにならないものさ、さびしければさびしいほど、せなかあわせになる」という歌詞を思い起こさせて、この「背を向けて指す」というテーマがとても面白く感じた。
 

「スカシカシパン」(鏡の会編)より。

 投稿者:大坪命樹  投稿日:2019年 4月24日(水)19時43分35秒 KD119104002174.au-net.ne.jp
返信・引用
   短歌など何も判らないのだが、せっかく買った本なので、勝手に解釈して味わってみた。

「花待つあした」星川郁乃さんの歌より。

 二十年後ここにいるかなわたしたちつぼみふくらむ木の下をゆく

 星川さんは、リウマチ持ちらしい。冬冷えると大層痛むだろう。そういう痛みからの開放の意味と、無事迎えられる新年度の喜びの意味を併せ持つ春。それは、常人の倍するものであるかもしれない。
 僕も、加齢と共に、すっかり春好きになった。もともと寒いのは嫌いだったが、若いときは夏の暑さも嫌いだった。しかし、僕のような年寄りは冷え性なので、夏の方がまだまともなのだ。また、夏は若さを思い起こさせる季節でも合って、僕のような中高年の男には、恋しい季節でもある。その始まりを告げる初春は、とても楽しい気持ちにさせる季節だ。だから、春の到来を告げる桜の花がとても恋しい。
 たぶん、この歌の「つぼみ」も桜のことであろう。しかもソメイヨシノが相応しい。二十年後といえば、子と星川さんの関係性が変化している歳である。もう孫がいるかもしれないし、ひょっとしたら自身の命も途絶えているかもしれない。だからこそ、この今この春、子と二人手を繋いで木の下を行く、そうして春の喜びを噛み締める。そのときには、二十年後のことはもはや眼中にない。この歌には、「二十年後」という仮想未来を思う現在の一齣しかないのだ。今を静かに喜び味わう歌なのだろうと思う。
 たまたま、わたしたちを親と子に取ったが、夫婦でもよかったかもしれない。いずれにせよ、暖かな歌である。
 
 

「スカシカシパン」(鏡の会編)より。

 投稿者:大坪命樹  投稿日:2019年 4月23日(火)22時39分12秒 KD119104012227.au-net.ne.jp
返信・引用
   「スカシカシパン」は、鏡の会の歌集である。歌人奥武義氏に、文フリ金沢で空華を買って戴いたので、お返しに一冊購入した。
 奥氏の歌は、職場詠と呼ばれるもので、通常日常の義務的でストレスが掛かり苦しみでありうる仕事の中から歌を読むことで、苦痛を感情表現などに託して美化してカタルシス的に、人生の影の部分を明るく照らすような試みのように思われる。これは、きわめて現代美術的な姿勢かと思われ、ポップアートや抽象絵画、あるいはパブリックアートと同じ理想をもつものと捉えることが出来る。また、それは仏教的でもあり、日常のあたりまえのことに感動し感謝できる感受性を養うことでもある。
 とりあえず、「スカシカシパン2019」の奥氏の歌から一句。

 書き損じ伝票の裏にまたひとつ歌が生まれる夜の作業場

 「書き損じ」は「失敗」の象徴でありうる。仕事に失敗は付きものではある。しかし、ミスはそうなんども許されない。失敗から反省して勉強し、成功を生み出す努力をするのが仕事である。だから、失敗は辛いしドラマが付き纏う。その失敗伝票の裏に書く短歌は、自ずとそのような仕事の挫折ドラマのようなものなのかもしれない。歌が生まれる度、歌人奥氏は成長を重ねていく。それが夜の作業場であるのは、いつか訪れる成功という朝を待ってのことだろうか。なかなか味わい深い歌だと感じた。

http://mutoukai.ml/

 

グッタリヽ(´o`;

 投稿者:藍崎万里子  投稿日:2019年 4月23日(火)22時32分36秒 KD119104012227.au-net.ne.jp
返信・引用
  みなさん、こんばんは。
文フリ金沢も、無事終わり、今はグッタリタイムを過ごしております。
私の、遂行ならぬ、作り変え中の、小説「マイグランマ」を、夫に読んでもらいました。
感想としては、おかしい。ということでした(; ̄ェ ̄)
自分では、書き込みすぎの、電飾小説になっちゃってるかな?   と思っていましたが、
まだ書き込みが全然足りてない。ということでした。
ただ今、原稿用紙93枚ですので、100枚超えは確実と思われます。
これは、自分としてみれば、問題小説で、マイグランマに見せられないという現実を抱えております。
マイグランマに喜んでもらえるようには、なかなか書けませんでした。
これを、太宰治賞に出す予定にしていますが、一次選考通らないかなー。ウキウキ。というわけにもいかない事情もあります。
難しい。。。
でも、最後まで、頑張ります!!
実家に帰ったら、文フリで買わせていただいた本、いただいた本などを、
片っ端から読ませていただき、感想を書きつつも、
自分の小説も、書き進めます!
レッツゴー\\\\?( 'ω' )? ////
 

文フリ金沢当日!!

 投稿者:ぶれこみ  投稿日:2019年 4月20日(土)07時38分59秒 KD119104003128.au-net.ne.jp
返信・引用
   今日は、最後とされる文フリ金沢の当日である。文フリ金沢は、スタッフの転勤が相次いで、存続するのが難しくなってきたようなのだ。
 それで、それならばと文フリ富山を起せばどうかと、一人考えている。もともと100都市構想だし、富山でやってはいけないという法は無いだろう。今日、望月さんに打診してみるつもりである。
 今回はあまつさえ土曜日と言うこともあって、客数は少ないだろう。去年300人だったから、その半分くらいこれば良いところではないだろうか。本の売れ行きも10冊を目指すにせよ、どれだけ売れるか甚だ不安である。
 まあ、せいぜい楽しんでこようと思う。

http://mutoukai.ml/

 

レンタル掲示板
/34